帰郷
久しぶり(といっても半年もしないくらいに一度帰っている気がするが)に帰省している。
もはや帰省前に秋葉原に合法的に寄ることができるのを主目的にしている節まであって、大変に親不孝だとは思う。
いざ地元に帰ると、いらない記憶がふつふつと湧き上がったり、意味もないプレッシャーが体を蝕んだりする。
友達と秋葉原で呑んでから帰ったのは正解だったかもしれない。
昨日は本当に疲れてシャワーも浴びずに、家の扉を叩くなり眠りこけってしまった。
母の顔も父の顔も、半年前に比べれば変わりはないが、緩やかに変わり続けているのだろう。
その中で私ができる唯一の親孝行は、親の思い出のまま変わらない姿でいることなのかもしれない。
罵倒
親の車で外に出る時、窓の外を見ると、道端で体格のいい女性が大変に大きな犬を連れていた。
私は気にも留めなかったが、両親がそれを見て、「犬も飼い主もそっくりだ」「熊だ」などといらんことを言うものだから、非常に不快な思いをした。
そんなことを言うもんじゃない、なんて釘を刺そうかと思ったけど、きっとそういういらんことを言うのもある意味社会のしきたりなのだろうと思ってやめた。
つまり、誰かの醜悪な点を指摘している時、常に他人ごとなのである。
それが親しい誰かに向けられるかもしれないということを、微塵も意識していないのである。
自らが放った言葉が自らや、親しい人に返っていくことを、省みることなどありはしないのだ。
そうした知覚過敏ないし感覚過敏とも言える何かが、私の人生における窮屈さをそれたらしめていると思うし、憎むし、同時に守らなければならないものだとも思う。
例えばテレビに映るオタクが罵倒されたら、それがそのまま私への罵倒と映るとは考えないのだろうか?
口では平等を語れども、所詮はそんなものなのかもしれない。
率直な感想を申せば、私の母はそういうことを言わない人だと思っていたのだけどなぁ、というところである。
何事も、窮地に陥っていると相対的に良いものは美化されるのかもしれない。
隅
隅っこは爪弾き者の象徴である。
かつて、コンビニの本棚の隅は、成人向け雑誌で埋められていた。
トイレに一番近いところにあの配列があるのは構造上のミスだと今でも思う。他に置くところもないのだけど。
今ではあの成人向け雑誌の棚は、怪しい中古書店に明け渡すことになり、その棚には麻雀やパチンコ雑誌が代わって陳列されることとなった。
あの隅にいる本たちを見ていると、自分を見ているようでなんだか寂しくなる。
エロもパチンコも、今となっては私を構成する欠かせない諸要素である。
うっかり社会的に糾弾されるものを好きになってしまった人は、それと一緒に隅っこに押し込められてしまう。
つくづく運が悪いなぁと思いつつ、好きになってしまったのならそれと心中、地獄に落ちるしかないのだなあとも思うのである。