ド畜生黙示録

オタク的ないろんなこと

本当に、しんどいです

ここのところ、嫌なことがあまりにも重なりすぎて、いよいよ耐え難くなってきた。

嫌なことが5個あったら1個くらいはいいことがあって欲しいと思うものだが、実際のところ、10個とか20個信じられないくらい嫌なことをふっかけられた後で10円を拾う、くらいの感覚である。

生きているだけで儲け物とは言うが、あまりにも心労が祟ると生きている方が負担である。
もはやなんでまだ生きているのかがわからない。
"For what"というよりも、自分自身への"why"の部分。
こんな心も体もボロボロにしてまで、生き延びていたいと思うだけの理由なんかないからには、死んでいないから生きているというくらいのものである。

恵まれてるという自覚はある。
こんな人間ですら、生きていけるような環境というのは当たり前ではない。
もっとひどい環境で生きている人がいるのも十分理解している。 
けどこんな人間が生きているくらいだったら死んでいた方がマシだとも思う。

つくづく思うが、世の中には働いて死ぬか、働かずに(飢えて)死ぬか、の二択しかない。
嫌ほど苦しんで働いて生きるくらいならもう何もせずに死んだ方が、よほどマシなんじゃないかと思ってしまう。

この程度の労働に耐えられない自分が弱いというのも理解している。
もっと辛い仕事なんかいくらでもある。

それはそれとして、自分があまりにも虚弱すぎる。
抗うつ薬飲んで、ADHD用のキチガイ対処療法薬飲んで、それで働けるようやくのラインがここなんだったら、自分はもう元々、生きてはいけないレベルの人間だったのだと思う他はない。

もう苦しみたくないだけなんだ。
一切の幸福がなくても苦しみがない方がマシだ。
それどころか苦痛ばかりが募るんだったら生きている理由なんかどこにもありゃしない。
どこにも逃げ道なんてないし、なるようにもならない。

底が今ならあとは上がるだけ、なんて言葉が大嫌いだ。底はいくらでも深くなる。悪くなるようにだけなる。這い上がれやしない。

生きるか死ぬかではなく、どう生きるか、なんて言葉が大嫌いだ。それを選べるのは強者の言葉だ。もちろん、自分も含めて。

やりようのない苦痛と虚無感が毎日を覆っている。
それがずっと繰り返されるだけ。

時々、生きること自体が罪悪なんじゃないかとすら思う。
こんなにも苦しいのは、ただ自分が生きていること自体が罪だから、その責苦なんじゃないかと、その方が合理的だと、そんな風にも思う。

もう心も体もぐちゃぐちゃ。
仕事辞めようがなんだろうが、ここから何かが好転する気配なんて微塵もありはしない。
目の前にあるのは夥しい数の苦痛の底なし沼だけ。
当たり前だ。自分でそこに入って行ったのだから。

けど救われるのであったら救われたい。例えその方法が死であっても。この苦痛が一刻も早く終わって欲しいと、心から願う。

情けないことに、無理が祟って倒れかけた。

ここ最近仕事の量が増えて、脳がパンクしていたらしいところに頭痛がきて、その上ここ数年で一番らしい忙しさを身に浴びたら完全にダウンしてしまった。

自分より30も50も年上の人より体力がない。本当に情けない話だ。

よく考えたら、いつもだって仕事中、目眩や立ちくらみなんて珍しいことではないし、吐きそうなほど気持ち悪くなってもなんとか持ち堪えて働いているだけ。この程度のこともできないなら、本当に自分が自分でいられない、と思いながら、ずっと無理をしていたんだと思う。

実際、こんな程度のことも耐えられないのでは、一体何ができるんだろう。

こんな生活をし始めて、そろそろ1年が経つわけで。
自分の限界というものをひしひしと感じ始めている。
自分には耐える以外のことはできないらしい。
なんとか薬を服用して、ギリギリできる生活のラインがこれ。もう、幸せにはなれないと思った。
というか、幸せになる資格なんか最初からなかったんだと思う。
昔からずっと、努力できない人間に生きる価値なんかないと思っていた。それは常に自分自身のことを指していて、何にも無気力な自分が心底から嫌いだったから。

やりたいことなんて何一つないらしい。
望むのは平穏な終わりだけで、それ以外の何物でもない。

頑張ってそれでも生きよう、と思ったって、生きている以上にはなれない。
生きていることは前提でなければならないのだ。
生きることが行為になった時点で、人生からは疎外されている。
生きることを頑張ろう、というその発想自体が、もはや甘えなのだろう。

結局自分は、たまたま親バカの元に生まれたからギリギリ生きながらえているだけの無能である。
そうでなかったら、とっくのとうにくたばっている。

それでも、いろんなことに、人に、元気をもらってなんとか生きているから、せめてものことを、と思ってできる限りのことはしているつもりである。
それで自分が報われることは決して無いと、わかってはいるけども。

人生なんてそんなもんなんだろう。
あと何年生きられるかしらね。

リージェント楽しいぞの話

あの、実に3ヶ月ぶりの更新らしいのですが、体感で言うと2年くらい更新してないくらいの気分でした。
時間感覚がむちゃくちゃで気が狂いそうです。

死にかけてるんですが、StS2がかなり楽しくてなんとかなってます。
新キャラリージェントが楽しいので今回はそのお話です。

A10とりあえずクリアまで行って(勝率5割くらい)コツを大分掴んだので、友達に見せる用にスライドまで作ったのでそちらからお見せします。

リージェントってキャラは概ね5つのテーマにカードが分けられます。
星軸、カード作成、ブレード、活力(複数回攻撃、全体攻撃)、トップ固定です。
ただこれらは基本単体で機能することはなく、混合します。
鍛冶師は星+ブレード、セブンスターズは星+活力、不時着は作成+活力等々。

その一方、単体でしか機能しないカードがかなり多くあります。
百戦錬磨、三日月の槍、など。(剣聖はβ版で大分強くなりそうな気配を感じているので古い情報)

逆に言えば1枚で複数の機能を持つカードは普通に強いです。
ブロックと鍛造を兼ね備えられる城壁、取り回しの良い失せよ、とにかく最強の宇宙的無関心。

特に宇宙的無関心は本当に強くて、デッキの主軸となるようなソヴリンブレードやメイン火力のアタックを取り回せるだけでなく、我に死角なしを固定したり、騒乱が起動できていたら何でも固定できたりと何でもできるので取り得です。
あとβ版だとクソ弱かった戦利品に2ドローが付いたので一気に環境トップクラスまで来たと思ってます。

とにかく、テーマを潤滑させることを意識する必要があります。

リージェントはどちらかというと、グッドスタッフのようなデッキになりやすく、単一テーマのカードを取っていれば形になるというわけでもないです。例外的に星だけは全ての基本になるので、ここは優先して取っておくのが良いような気がします。

ちなみにさっきも書きましたが戦利品はゴミから神に昇格しました。
あと爆撃はどなた?と書いていますが起動しづらいだけで、ボス戦等で一回起動できると非常に安定した火力が毎ターン出せるため、強いのですがいかんせんコストが重く、虚無化等と組み合わせたいところです。あとバフデバフターンに起動するとか。

リージェントは最初に引けたカードを起点にしようとすると大概事故ります。
安定札と序盤火力をバランス良く取り、足回りを固めてからどの方向に行くか決めないと厳しい。
特にブレード軸とかは、宇宙的無関心と顕現がちゃんと引けてないとまともに回らないだけでなく、複数敵への対処が追尾の刃くらいしかできないので詰みます。

逆に足回りが固まったところに上手いこと強いカードが刺さると一気に化けます。
個人的にですがスペクトラムシフトを主軸にしたデッキ作成軸が本当に好きで、デッキの中身が弱くても無色カードで壊せるので楽でいいです。今作無色カードが比較的強いものが多く、それも影響してると思います。
武器庫がβで作成時点で筋力を得られるようになっただけでなく、強化内容が天賦になったので最高です。
創造の柱と専制あたりが起動できるとほぼほぼ負けないです。

盾となれは強いというかデッキにブロックがなさすぎた時の応急措置兼圧縮みたいなところがあります。作成軸が武器庫のリワークでそこそこ行けそうなのでその辺も含めて使えればいいなと思います。

コモンの小盾の展開は結構評価してて、ブロックしながら次の攻撃を強化できるのは1点2点が左右するスレスパにおいては結構有用だと思ってます。活力軸なら更に活用できるのは言うまでもなく。

ブロック多めに取りつつ、足回り固めて上手いこと上振れ狙うのが勝ちやすいと思います。
序盤にヘヴンリードリルとか取れてもどうしようもないので…

あと全般的な話で言うと、今作エリート踏むメリットそんな大きくないです。レリックで壊せるの稀なので。
というかリージェントと噛み合いのいいレリックそこまで見つけられてないのもあるかもしれません。
大砲で活力軸するとかが一番現実的か…?

それよりエンチャントがかなり強いので?踏むほうが良いです。その関係で数珠のTierがかなり高い気がする。イベント確定になるので。というかエリートが強すぎ。マップ全体通して本当に強い。
回復もしづらいし体力削れるほうがしんどい。

アセ10クリアした時の置いておきます。
レリックとパワーカードの数の暴力で乗り切りましたね…
最後ソヴリンブレードにリプレイ付いた時脳が焼き切れるかと思った

やはりリージェントはグッドスタッフ気味にして、対応力で勝負した方が楽しいような気がします。
勝率を求めるキャラじゃないような気がする。これ安定して勝率出せたら本当にすごいと思う…アセ10とかそうそう何回もできるもんじゃない

とはいえ自分StSはそんな熱心にやってたわけでもないのでアセ20なんか夢のまた夢だったので、それ相当のとこまで来れたのはかなり嬉しいっす。
これからも調整に期待

良いお年を

よいお年を、というのは不思議な挨拶である。

まだ見ぬ先の未来を、それもただ人間が勝手に区切っただけの一年という時間の終わりに際して、その次の一年の安息だけを意味する、なんとも不思議な応答だ。

だが私はこの歳末の、このやりとりが好きだ。言い忘れると、思わずうっかりした、と思うくらいには。

それは純粋な他人の幸福への願いであり、ただの社交辞令とは思えぬような、善性の欠片である。


思えば、うまくいったことなんか何にも無くて、自分ができる人生の、役回りの、その限界を知らされた一年だったように思える。
生きてはいけるけど、ただそれだけ。
率直に言ってしまえば、苦しかった。
誰にでもできるような、そんな役を演じ続けさせられて、その繰り返しで、自分を大切にしてあげられなかった。
そうだ、人生という総体それそのものには、なんの価値もないのだと、改めて直視させられる。

でもそれはとっくのとうに答えの出た、意味のない問答だ。
元より人生に意味なんかない。誰もが死に向かって、真っ直ぐ歩いている。このこと自体に、意味は与えられていない。
むしろ、与えられていないからこそ、私たちは死に向かって一様に歩かない。だからこそ人間なのだ。

それでも。
進めた歩みを、私自身が認められなかったら、苦しいことに変わりはなく、行き詰まったように感ぜられる。
私は何よりも、普通になりたかった。
誰が見ても非難もせず、賞賛もしないような、そんな人生を歩みたかった。
私は怠惰による非難を恐れたし、無意味な苦境への賞賛も恐れた。
何も感じたくなかった。ただ、安寧と終わりだけを望んでいた。
そこにあるのは、ありとあらゆることへの後悔であり、こんなはずではなかった、というこの世の不条理への怒りである。

それはただの驕りだ。
もっと上手くいったはずと、驕り高ぶった自我の表れでしかない。
むしろ、ただ、こんな人間が生きていけることに感謝しなければならない、とさえ思う。
それでも、もっと上手くいったはず。と、何度も何度も反芻する。
あったかもしれないはずの未来と、現在を天秤にかけると、現在が吹き飛ばされる。
どこまでいっても、私は私自身の在り方を、決して認められない。


私の掛け持ちバイト先のオーナーは、両親がとても裕福で、言葉を選ばずにいえばボンボンだ。
本人は貧しいとまで言っているが、その実態はマンション持ちで、ポンと大型の車を買い替えられるような財力の持ち主である。
彼らを見ていると、人生の9割方くらいは生まれなんじゃないか、とすら思う。
根底にある価値観、価値基準が違う。
時には嫉妬すらしそうになる。あぁ、金さえあれば、人生にこんなにも余裕があるのか!と。
そんなオーナーはいつもまかないの時間にこう言う。

"腹一杯食えることは、幸せなんだ" と。

最初それを聞いた時、私は耳を疑った。
悪人だとは決して思っていなかった。むしろ素朴な善性に溢れた人だった。しかし、こんなにも恵まれた人間から、こんな、こんな素朴な、一次欲求的な、プリミティブな、幸福が説かれるとは、思ってもいなかったから。
彼は粗暴な青年期を送って、飲食を転々とし、両親の手伝いをして、今に至る。
客単価は基本的に高い店だ。真逆の価値観が醸成されたって、なんの疑いもない。
それでも彼は、口癖のようにそう言うのだ。

私はその言葉に救われている。

生存が当たり前になった現代(ないしはこの国で、あるいはもっと狭い範囲のことかもしれないが)で、幸福の基準は、自分よりも、他人へ移り変わりすぎている。
それは単に、価値基準が相対化し、他人との差によって幸福を計りすぎているということではなく、生存自体を当たり前にしてしまうことで、幸福と呼べるようなものが、絶対的に他人との間柄の中でしか、見出せなくなっているということである。
結局のところ、"自己実現"と呼べるようなものはこの世に存在せず、それはむしろ他者による自己の同定である。
"私が何者であるか"は、逆説的に"私は何者ではないか"ということでしかない。これは私は一体何なんだ、とあらゆる他者にしがみついているような有り体である。
生きているだけでは飽き足らず、隣人からの、共同体からの、社会からの、世界からの、承認を、スタンプラリーのように集め、自らを形作る。これが、今の当たり前の幸せだ。

でも、そんな他者からの同定は、もっと根源的な幸せの前では無力である。
生存できることの幸せ、生きたくても生きられなかった者の無念、少なくとも生きている、という保障…
それらは何にも代えられない。
私は今、生きている。
これは私が私に行える唯一の同定であり、実証である。
だから、きっと生きる。
そんな救われ方もある。

…だが、結局、私たちは他者の同定なしで生きることなど、できやしないのだ。

ふと思う。
別に自分が何者でも、他者が何者でも、そこにいてくれる人が、私にはいる。
無機質な同定ではなく、ただいる、のだ。
それは純粋無垢な善性で、共にあることの美しさである。
きっと私たちは共に生きる、という願いである。
例え私たちが何者であっても。

十数年前のインターネットでは考えられないことが起こっている。

youtu.be

日本と韓国の文化交流だ。
もちろん2000年初頭にはヨン様ブームがあったし(もう冬ソナって通じないね…)、以降もKPOPの隆盛があったりと、色々はあったけど、当時のインターネットの反韓感情は、とても今のインターネットからでは考えられないものだった。
もちろん今のインターネットだって褒められたものではないが、もっとひどい。
かたやテレビで韓流ブームを謳い、かたやインターネットでネット右翼を煽り…というような地獄が罷り通っていた。
アズールレーンがリリースされた時、少なくない人間が、艦これのパクりを韓国風情が…と考えていたはずである。なぜなら私ですら、うっすらそんなことを思っていたから。そんなことを経験しているからこそ、インターネットの予後がマシな部類なのだけど。
以降、様々なゲームが大陸からやってきて、分け隔てなく遊ばれて、そんな軋轢はどこへやら。
けれど気がつけば向こうから輸出されるばかりで、もはや日本のソーシャルゲーム界は死ぬのか?と思ったほど。

そんな最中、スピキブームの火付け役、粉雪である。
誰がどう見たって、ネタでしかないのだけれど、私はここのコメント欄を見て、少し泣きそうになった。

"日本と韓国に、メリークリスマス"といったコメントが、溢れていたのだ。
あの頃の、反大陸感情に溢れていたインターネットからでは、考えられない光景だった。
こんなに悪くなっていくばかりの世の中だけど、悪いことばかりじゃないんだ、と本気で思った。

私たちは共に在れる。何者であったとしても。
きっとそこに幸せはある。
だから、私から、一緒にいてくれたみんなへ。

ありがとう。

良いお年を。

例の件の愚痴です

※愚痴とかです 何の話かわからなかったらスルーしてください

ここ数日、色々と考えて、自分なりに結論が出たのでメモとしてまとめておこうと思う。

やはり、火元は火元で、無実とはとても言い難いところがあるのは間違いがない。
が、それ以上に延焼させている側が狂気的である。
それ故に、火元が無実だと言わざるを得ないほど、議論が困難になっている。

誰しもが被害者/加害者という二項対立に陥っている。実際にはそれはグラデーションで、簡単に語れるものではない。
誹謗中傷は咎められるべきだが、それはそれとして、発端の行いも別に褒められたものではない。
ただそれだけの話なのに、二者がいたらどちらかが善で、どちらかが悪だと断定するのは愚かだ。

なぜ炎上してしまったのか。
至極簡単である。炎上するものの模倣だからだ。

情報商材屋なんて今のTwitterで最も嫌われているものの一つである。
それは荒唐無稽で、傲慢な、資本主義が生んだバケモノだ。
わざと炎上するような不快な物言いをし、インプレッションを稼ぎ、次の犠牲者を探る、そんな気持ちの悪い存在。
そんなものの模倣をして一体誰が心地よくなるというのだろうか?

そして扱った題材は、決して軽いものではない。

社会のインフラや、システムの維持に必要な現場職のことを、エッセンシャルワーカーと呼ぶ。
こうしたエッセンシャルワーカーは、待遇が悪い上に賃金も低い事が多く、人手不足が近年問題になっている。

エッセンシャルワーカーは誰にとっても必要なのに、誰も就きたがらない。誰かがやらなければならないのに。
私たちの日常というのは、常に誰かによって支えられている。
お互いがお互いに支えられて、ギリギリ保てているのが今の社会だ。

働ける時間を選べるはずもない。望んで働いているわけではないかもしれない。
じゃあ転職すればいいじゃん、なんて言って、皆が皆一斉に転職したら、困るのは一体誰なのだろう?

タワマンにいつまでも電気と水が届くと思うなよ、なんてツイートを見かけたが、正にそういうことだ。

皆苦しみながら働いて、お互いがお互いを支えているのに、どちらか片一方が、苦しいならやめれば?などと突き放してしまえば。
その先は自明だ。

情報商材屋というのは、そんな対立を煽るような、資本主義が生んだ闇だ。
利潤だけを追求し続けた先に、社会の存続などあるわけがない。

あのツイートは、そんな不毛な対立を煽っているようにしか見えないのだ。

身内ノリ、ミームというのは、前提が共有されて、初めて効力を発揮するのである。
そしてTwitterというのは公共の場だ。閉鎖された空間ではない。
インターネットないし、SNSは、あくまで公共の場である。決して仲間内のみで盛り上がれる場所ではない。
だから、伝わらなくていい人に伝わったとか、アルゴリズムが悪い、なんていうのは全くもってなんの言い訳にもなっていない。

もしそんな"身内ノリ"が許されるのだったら、バカッターだなんて呼ばれていたあれは何だったのだろう。
彼らだって仲間内で騒いでいただけなのだ。何ら変わりはない。まぁ営業妨害の類であればその限りではないのかもしれないが。

ともかく、そんな対立煽りを全世界に発信した時点で、本人に悪意があろうとなかろうと、企業に所属するタレントとして問題のある行為なのは疑いようもない。
これを些細なことだというのであれば、それはただ現実が見えていないだけだ。

"一見してネタだとわかる"のはインターネットのやり過ぎだ。
情報商材屋などという汚物を日頃から目にしているから気がつける事実であり、前提なのであって、何も知らない人が見たらただの愚者である。
まさか、この期に及んで"嘘を嘘だと~"なんて言うことはあるまい。

総じて、当事者が寝坊の常習犯であり、情報商材屋あるあるを題材として扱い、ジョークのつもりで発信した、という全ての前提を踏まえた上で、あのツイートは何も面白くなく、問題だらけなのである。
労働者が仮に憤ったとして、それを自他境界が曖昧だとか、被害者妄想だなんて言っていいはずもない。

むしろ自他境界が曖昧なのだとすれば、それはあれをジョークだと頭ごなしに言える側である。
なぜならあのツイートはハイコンテクストであり、その文脈の一つも内容から読み取ることができないからだ。
理解できなくて当然なのである。前提が共有できていないのだから。
ある意味でこれはサリー・アン問題のようなもので、前提の共有という、コミュニケーションにおいて重要な観点が丸ごと抜け落ちているのだから、自他境界なんて難しい言葉を使っていないで、コミュニケーションの仕方を改めるべきだ。


…ということを踏まえた上で、この炎上の仕方はいささか異常だ。
飢えた獣の群れに餌をやってしまったかのような。

火元の当事者に求められるのは問題に対しての簡潔な謝罪のみであって、それ以上ではない。
仮に何か過失があったとして、執拗に人を貶める権利が私たちのどこにあるというのだろうか。
ましてやただの憶測で赤の他人を貶めるなどもう本当にどうかしている。理解に苦しむ。

もう勘弁してくれ。
こういうのを経てアンチになったなぁと懐かしい気分になってしまった。
今更そんなことはする気もないけど、贔屓にしている企業がこんなことになっていると辟易してしまう。

私たちは一度、狭い社会に帰るべきなんだと思う。広くなりすぎた。
もっと共同体単位で生きていくべきなんじゃないか、と。
疲れちゃうよ。みんな。

博愛、或いは

この二日間、両親がこちらに来ていた。

思い悩んだ末だった。帰省が面倒なのもあったから、ならこちらに来てはどうか、とこちらから持ちかけた。

はっきり言って両親のことは好きではない。忌み嫌う程でもないが。
ただ、私の学生時代、トラウマを植え付けたのもまた事実なのだ。

それでも、命には限りがあるし、今やれることはやらないと、必ず後悔すると、頭ではわかっていた。

私のトラウマとは、私のエゴで、ただこのままの私を見てほしいというどうしようもない願望が、反是にされただけのことだ。

当時の私は、中学時代に負った傷と、自分の在り方と、これからの在り方の間で板挟みになっていた。
だから、ただダメな自分を肯定してほしかった。
私はダメな人間だった。何に対しても無気力だった。それでも自分の存在だけを認めてほしかった。それはただのエゴだ。

母親からはダメじゃないと言われた。私が欲しかったのは、無償の愛だった。
父親からは母に迷惑をかけるなと叱責された。それは至極真っ当なことだ。

私はずっと引きずっていた。
存在の肯定とは、存在を根本から認めることだと思っていたから。

けど本当はそうじゃない。それも一つの在り方ではあるが、それがすべてではない。私にはそれを認めるだけの度量がなかった。

結局のところ、これは私がどう思うかという問題でしかない。
少なくとも、眼前にある両親の愛は間違いなく本物で、それを素直に受け取れるかどうか、ということでしかないのだ。

私は後悔したくなかった。だから、それまでと同じように振る舞うことにした。
それから、自分が正しいと思うことをしようと思った。
どうしても、報いたかった。
私の今の在り方は正しくないと思う。私は私をどうしても許せない。
でも、私が私を許せなくても、他人を許さないのとは、別問題だ。

せめて、自分が自分に報えなくても、他人にだけは報いたいと思う。
ひょっとしたら、皆そうなのかもしれない。

ほんの気持ちで、これこそエゴだと思うけど、両親との飲み代を全部出した。
両親はそんなことはダメだと私を止めかけたけど、こんな小さなメンツくらいは立たせてほしくて、それを振り切った。
まだ家賃だけは出してもらっている。そんな手前、こんな飲み代くらいでなんの報いにもならないのはわかっている。
それにひょっとしたら、甘えられるだけ甘えるのも、ある種の報いではあるのかもしれない。
でも、何もできない私のままでは、本当に私を許せなくなってしまう。
形だけでも、そんなことがしたかった。

結局、両親は帰る前に鰻屋に私を連れて行って食べさせたものだから、全部チャラになってしまった。
でもそれを拒むことはしなかった。奢られる時は気持ちよく奢られる主義だから。

私の母親は誰かからお土産をもらうことを是としなかったけど、誰かに送ることは厭わない人だった。
私はそれが嫌いだった。誰かからの愛は、形だけだったとしても、素直に受け取るべきだと思っていたからだ。
だから私は、それを体現すべく、人には振る舞い、振る舞われたものは拒まない、と決めていた。

思えば最初から、愛のすべてはここにあったのかもしれない。
このことに気がつくのに、10年近くかかってしまった。

きっとまだ間に合うから、後悔しないように生きたいと思うばかりである。