※全編に渡り、様々なネタバレ注意。
※10/21追記:あろうことかゲームのストアページリンクを貼り忘れていたので追加…一番忘れてはいけないものを忘れていた…
※10/29 若干公開しないほうがいい情報に触れていた気がするので該当部分を削除。最後のルート周りのところです。
久々に心を揺さぶるゲームに出会った
友人から突然Steamギフトが届いた。何かと思ったら、『Inverted Angel』だった。
Steamの良さげな新作は割と目を通している方なので、目には留めていたものの、一体どういうゲームかまでは知らなかった。
一見して、あぁ、いわゆるニ◯ィガライクな、地雷系女の子のADVね…と思った。
この友人は本当にインディーゲーによく精通していて、色んなゲームを知っているから、彼から知ったゲームは少なくない。というかほとんど彼経由だ。
だから彼のゲーム観察眼には全面の信頼を置いているのだが、実のところ私はノベルゲーがそこまで好きではない。
というのも、完全な一本道として構成されるノベルならともかく、ルートが複雑だと結局虱潰しに全ての選択肢を選んでいくことになってしまい、そうなると全てを見届けようとしたら読むという感覚よりも、可能性を一つ一つ潰していくような作業に成り果ててしまうからである。
何かを読むことも、ゲームを遊ぶことも好きだからこそ、ノベルゲームが、ゲームという媒体を取らなければならない必然性を伴わなければ、なかなか食指が動かない、ということである。だからこそ『ブルーアーカイブ』や、『Oneshot』には感銘を受けたのだ。
しかしそんな彼からこのゲームをおすすめされたのだから、これはもう何か理由があるに違いない、と思ったし、触らないわけにはいかなかったのである。
今思えば、おそらく送りつけられなければプレイしなかっただろうし、本当にこれは幸運なことであった。
結論から言えば、開始数十秒でなぜ送りつけられたかを理解した。
画面越しの美少女が、哲学的な議題を提示する。
なるほど。

彼は私のそうした側面もきちんと見ていてくれたらしい。
普段、「~して横転」とか「~して顔ない」とか貧相なボキャブラリーでしか語らない自分だからこそ、そうした側面で捉えてくれるのはそれなりに嬉しい。
私はギリギリそうした年代(00年的なノスタルジー)には立ち会うことのできなかった世代なのだが、きっとこういう感じだったんだろう、と思う。哲学がオタクの必修科目だった時代。
だが、それだけではないということをすぐに思い知ることになる。
あまりにも斬新なゲームシステム、ノベルゲームで自由入力!?
そもそも得意でないノベルゲームで、更に自由入力だって、と少し面食らってしまったのを鮮明に覚えている。
自由ということほど不自由なことはない。
与えられた選択肢をなぞることよりも、自由に記述するというのは、何者かの意図を汲み取ってしまおうとするからこそ、むしろより縛られてしまう。
一番最初にした想像は、”義理の妹”だった気がする。
なんというか、一番無難そうというか、優柔不断な自分らしい回答だと思う。
でも、何か決まり切った正解とか文言があるというよりも、彼女とふわっとしたおしゃべりができる、という感覚はゲーム体験として非常に新鮮なものだった。
以下、バッドエンドを除いた各エンディングの感想を達成順に。
多分もう他の人が色々いっぱい書いてくれてるから簡潔に。
ネタバレ注意。
各エンディング感想
Invalid Angel
私はここでゲームをやめなかった自分自身を褒めたいと思う。
多分、ここでああこういうゲームね、と思ってしまったら、きっと朝焼けにはたどり着けなかったと思う。
そしてこのエンディングが最初だったせいで、実績「First Role」が達成できなかった。
まぁでも、たしかに彼女との対話を通さない唯一のルート(だよね?)だからそれはそうという感じ。
この実績が一番多いところを見ると、辞める人はここで辞めてしまっているのかもしれない。
でも、私はなんとなく、彼女ともう少しお話がしてみたかったんだ。
Higher Girl Pudding
過程こそ不穏だったものの、ゲーム全体で見ても結構笑えるエンディングだった。
花言葉でクソほど笑った。花じゃねぇし、物騒すぎるし。
完全に余談だが、このゲームをプレイする直前、本当に親しい友人同士が、恋人の寝取り寝取られみたいな話で絶縁したとかいう地獄のような痴情のもつれに巻き込まれて、気分が最悪だったため、このエンディングにたどり着くための発想が完全に閾下で封印されていた。
だって、浮気とか不倫とか、そういう言葉を脳裏によぎらせたくなかったんだもの。
バイアスって怖いね。
でも、つまりこれは”そう思いたくなかった”ということなんだろうな。
Chocolate Hideout
あまりにも綺麗すぎて、これが真エンドじゃないの!?と驚嘆したエンディング。
「流行り病」というミスリードに唸らされた。
ひょっとしたら、もう20年も30年もしたら、このゲームすら古典になって、こうした文脈は棄却されてしまうのかもしれないな、と思うと、今このゲームを遊べて良かったと感じる。
カウンセラーとしての卵、いや卵ですらないような、真似事みたいなカウンセラー。
そのカウンセラーが、クライエントとの一線を超えてしまったという葛藤、感情の揺れ動きが美しく描かれているな、と思った。
何より、彼女が繰り返し唱えていた言葉や思想が、よい形で拾われていたと思う。
「言葉にできるのは、ほんのひとかけら」
これに気づいた時は、言い方は悪いが脳汁が出た。今思うとかなり不誠実な反応だと思う、これは。
彼女は献身的であり、かつ独善的でもあった。
カウンセラーの立場でありながら、彼を救おうとカウンセラーとしての立場を超えた。
一番彼女の人間らしい部分が見えたエンドであったなというところである。
そもそも人間らしいとは一体何なのか、ということを考えると、この発想もまたなんだか不誠実な気もするけど。
でもきっと幸せになってほしいな、と思うエンドだった。
Fool on the Sugar Board
この辺から頭を捻り始めた。
矛盾の指摘が難しい部類ばかり後に残ってしまったようで、うんうんと唸りながらやってた。
サブタイトルがおしゃれで本当に好き。
「死んで治すほどでない馬鹿でありたい」
美しい言葉だ。
しかしこの女たらしがよぉ…
Rusty Caramel Cage
VALORANTのプレイヤーネームがこれになった。
一番大好き。
俺も誤謬を誰かに押し付けて過ごしたい。
というか、ひょっとすると現在進行系で押し付けているのかもしれない。
誤謬を押し付けられた分、誰かに誤謬を押し付けていいなんて発想、どんな生き方してたら出てくるんだ。

意味から解き放たれた世界で生きてみたい。
そうやって彼女と混ざり合ってぐちゃぐちゃになっていくんだろうな。
意味というものが解体されて、何物とも関係性を持たなくなって、そうやって支離滅裂になる二人だけの世界。
「意味とは人や現象の間にある関係性の全体像」であることを考えると、世界に本当にたった二人だったら、あんな言葉の紡がれ方をするのかもしれない。
夢野久作みたいなのが大好きだから、このエンディングは本当に刺さりすぎて困ってしまった。
Cheesecake Hallucination
ここからはもう発想力との勝負。
最後2つがこれともう1つなの結構珍しいらしい。
なんだか切ないな、というのが率直な感想だった。
結局彼女は何者だったのだろうか?
小さいな嘘とは、一体どれのことだったのだろうか?
ストーカーであることは間違いがないのに、彼女に感じるこの感情は何なのだろうか?
ひょっとしたら、彼女は嘘をついていないのかもしれないし、あるいは全部嘘なのかもしれない。
でも、そんなことよりもっと重要なことがある。
彼女を通して、自分の存在の在り方が変わったということである。
それがきっと、とても大切なことなんだと思う。
Scarlet Icecream
一番最後が…これか…
なんというか…これは…
「Rusty Caramel Cage」とは違うタイプの狂気。両方狂ってる系統。
しかも記憶が正しければ自分が詰められる唯一のルートか。
「Rusty Caramel Cage」は共犯だったわけだし。
ひょっとしたら正統派なヤンデレってこうだったかもしれない。
『Inverted Angel』は果たしてメタフィクションなのか
ここから先はあくまで私の思索であり、本編とは少し離れた、思想的、あるいはゲーム評論的な内容になることをご留意いただきたい。
近年はメタフィクション的なゲームが大変に増えてきた。
『Undertale』を皮切りに、『Oneshot』、『Inscryption』、『DDLC』、などなど。
(もしこれらがメタフィクション的ゲームであるというネタバレをここで踏んでしまった人がいたなら、本当に申し訳ない)
このようなゲームに共通しているのは、彼らの世界への直接的な関与が可能である、ということである。
それは私達と画面を隔てる壁を打ち破ってくる、新鮮なゲーム体験として映る。
彼らの世界に介入し、彼らに語りかけられ、この私がゲームの一部となって体験する。
メタフィクションなゲームでは、そのような楽しみ方ができる。
この意味で言えば、『Inverted Angel』もメタフィクションと言えるのだろうか?
たしかに、プレイヤーたる私は、自由記述という形で言葉を紡ぎ、ウィンドウに入力する。その入力した内容で、展開が変化する。
そして、彼・彼女の行方を決定づけているように見える。
なるほど、たしかにこうして見ればメタフィクションと言えるかもしれない。
だが、彼・彼女から私に直接的にインタラクトすることがあっただろうか?
否である。
ここで、そもそもメタフィクションとは何なのか?という疑問が生じる。
一旦、メタフィクションという語の意味を確認したいと思う。
あまりこういう場でWikiを引用したくはないのだが、Wikipediaによれば、メタフィクションとは
メタフィクションは、漫画・アニメ・小説などにおいて「それが作り話だ」ということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。
ということらしい。
だが『Inverted Angel』では、プレイヤーに語られることはおろか、自己言及ですら暗示的程度にしか行われない。
演出面ではメタ的なものを思わせられる表現もあるが、少なくとも語り口はそうではない…「Invalid Angel」だけはかなり怪しいけど。
そして、語り手イコール私、では必ずしもないところもミソだ。
プレイヤーたる私は語り手足り得ないこともある。時に私の意図を超えて、部屋の住人は役柄を変える。
ではこの作品はメタフィクションではないのだろうか?
先ほど挙げたメタフィクション作品群は、実は少々歪であるように思える。
メタフィクションが虚構と現実の関係について語り得たとして、プレイヤーたる私が、メタ的な存在として、彼らから完全に分離されていることに、必然性はあるのだろうか。
結局のところ、そのような語られ方においてプレイヤーはプレイヤーでしかなく、プレイヤーとしての立場を与えられ、彼らとは本質的に異なるメタな存在として扱われる。
それは本当の意味で何らかの問題提起ができているのだろうか。
そして、それらを問題提起として捉えることは、果たしてエンターテイメントと言えるのだろうか。
ゲームとして品がないとか価値がないとか、そういう話では決してないのだ。
そうしたゲームが、何らかの問題提起が為されている、という次元で語られるべきではないという話である。
プレイヤーをゲームの外側の人間として突き放したり、あるいは過剰に敬愛してきたり、そうやって語り得るのは、私達がゲームの外側の人間であるということだけである。
それは鮮烈で、豊かなゲーム体験であるが、多用されれば我々はただ画面の前で打ちひしがれるのみになる。
もっと掘り下げて考えてみよう、メタフィクションにおけるメタとは一体何を指し示しているのだろうか。
つまり、何の外側を意味しているのだろうか。
画面の外側、もっと言えば創作物の外側、とでも言えばよいのだろうか。
まぁ、フィクションに接頭辞のメタがついているのだからそれはそうか。
ただしかし、だとしたらより一層、高次的なフィクション、あるいはフィクションの外側にあるフィクションとは、一体何なのだろう、とは思わないだろうか。
ゲームの中の彼らが自らをゲームの中の住民だと自己言及した時点で、彼らと私の間には絶望的な断絶が生まれる。それは彼らがこちらの次元に足を踏み入れたのではなく、むしろ私達がより高次な次元にあるという確証を生む。端的に言えば、白けるのだ。没入感が削がれることにより。
それでは結局、フィクションの側はより低次に貶められているとは考えられないだろうか。一体何がメタ的なのか。ともすると、メタフィクションとは、私達の世界をより高次に置くためのフィクションなのだろうか。
とてもそうは思えない。
自己言及を伴わなくとも、フィクションの高次性はおそらく表現しうる。
極端に言えば、ゲームという表現を伴う限り、ある一定の高次性を担保しうるのではないかと考えられるのである。
よく考えてみてほしい。ゲームを遊んでいる間、私達は彼らに何らかの形で干渉しうる。
アクションにしても、RPGにしても、何にしても、操作するのは私で、彼らへ干渉することができる。
これは、小説や映画など、他の媒体では不可能な表現だ。
そこに、メタ的な自己言及を伴う必要は一切ない。
一度生み出されれば語りが変わることのない創作物と違って、ゲームは私達が多様なやり方で関わることができる。
この時、虚構と現実を区別することに、どれほどの意味があるのだろう。
創作物と現実が区別され、どちらかがどちらかに対してメタ的であると言明することに、なんの意味があるのだろう。
私達が世界の基底にあり、外側に立っていることを自明とするのは、果たして妥当なのだろうか。
もっと言おう。既に、彼らと私達を隔てる壁は打ち破られているのではないだろうか。あるいは、始めから壁などなかったのではないだろうか。
これは、私達が世界に存在する限り、何かの外側に立つということなど、許されないのではないか、という言説である。
訪問者たる彼女が語った、ホタテの採苗器の話みたいなことだ。
創作物が何者かによって作られていたとして、それが私達と創作物を隔てる理由にはならない。
虚構も、現実と呼ぶこの世界も、全て今ここにあるのだから。
全ては互いに連関して、互いに干渉する可能性を持つ。
そして、それらは互いに結びつき合い、新しいものへと変質する。
それは単なる相対主義ではない。私達は想像以上に、様々なものに左右されているということだ。人間か、非人間かに関わらず。
「意味とは人や現象の間にある関係性の全体像」なのだ。
我々は、多種多様なものと関係性によって結ばれ、離れ、また結ばれる。
世界の内側と外側といったような関係があるように見えるのは、それが暫定的に一義的な関係にあるからに過ぎず、何らかの影響を経て再び新たな関係性を生み出す。
現実と虚構についても同じなのではないだろうか。
彼女の言葉を思い出してみよう。
「道具と人間は切り分けられない」。
「何かの意味っていうのも、毎分毎秒そのときの関係性の全体像に応じて浮かび上がるだけ」。
だから、私達が創作物を虚構だと断じる時、それは私達と創作物の間にそのような関係性が生まれているだけだ。
決して、恒久的に創作物の外に立つことを許されているわけではない。
私が創作物を規定するのでもなく、創作物が私を規定するのでもない。あるいは、社会によって規定されるのでもない。
大事なのは、私と創作物がどのような関係にあるかということであって、現実と虚構の問題ではないのだ。
Inverted Angel
本当に長い回り道だった。
ここまでフィクションと、メタフィクションについて語って、ようやくこの話が出来る。
真エンドであるこのルートは、全ルートを通過しなければたどり着くことが出来ない。
色んな色に彼女が染まっていくのを見て、遂にたどり着いた色は”透明”だった。
そうだ。どのルートでも、必ず空は”白んで”いた。
思い出してほしい、彼女は、一体何を望んでいただろうか?
「真っ白な絵の具が見つからない世界で、それでも天使になってみたかった」のだ。
白というのは、何物にも染まらないことの象徴で、だからこそ白色の羽を持つ、自由な天使になりたかった。
でも実際には白色の絵の具なんかなくて、それどころか白色の光は全部の色が混ざりあった色だった。
しかもたとえ空が白色だったとしても、空を飛んでいたら色付いてしまう。
結局白も色の一つに過ぎない。
白色であることと、透明であることは全く違う。
彼女に白色の羽を見出したとして、それはやはり彼女に何らかの色を見出していることと変わりがない。
だから、最後にたどり着いた色が透明であるということが…とても綺麗で、何度も反芻して、涙が出そうだった。
つまり、何が言いたいのか
最初に記せばよかったのだが、私はこの言説を通して別の作品を貶めたり、逆に何らかを権威あるものとしたいのではない。
ただ、作品の評価軸ないし、扱われ方、作品との向き合い方について、言明したかっただけである。
結論から言おう。
”『Inverted Angel』は、メタフィクションではないと考えたほうが、誠実に思える”のだ。
ゲームという表現方法自体が既にメタ的であることから、メタフィクションとの厳密な境界を設けられないのではないかということは前述の通りだ。
そのことを念頭においた上で、それでなお、このように思う。
そもそもメタフィクションとは何なのか、という明確な結論は未だ出せていない。
ただもし、それが世間一般の潮流からして、自己言及的な表現を伴う、現実と虚構を意識させるようなジャンルなのだとしたら、やはり『Inverted Angel』はメタフィクションではない、と考えたほうが誠実だと思うのだ。
確かに、こういったメタフィクションのような表現は散見される。「Invalid Angel」なんか顕著だ。


しかし、彼らのセリフをメタ的な発言だと見なせるのは、自分と彼らをそのような関係性で結んでいる限りにおいてのみ。
彼らを虚構と断じるのではなく、別の関係性で繋がることが出来るのなら、あるいはそうありたいと願うならば。
このゲームの意味合いは、大きく変わってくる。
私と、彼と、彼女とが互いに関係性を結んで、離れて、また結ばれて、時には自分の意図からも離れて、転がり落ちていく過程。
与えられた選択肢によってではなく、ふわっとした、ニュアンスで彼女とお話をするだけ。
そんな関係性を想定したっていいんだ。
そして何よりも、彼女との関係を虚構と断じることが、彼女の意味を、存在を、塗りつぶしてしまうようで。
誠実ではない、というのはそういうことだ。
真っ白を追い求めた彼女との関係性を、私という権威の下で、塗りつぶしたくない。
彼女の在り方を断定できる存在であってはならない。ありたくない。
だからこそ、私は現実と虚構を隔てるようなメタフィクションとしてではなく、彼女との対話を大事にしたい。
そうして初めて、朝焼けを臨めるのではないかな、と思う。
逆説的に、メタフィクション的な表現を用いないことで、本当の意味でメタ的なことを語り得ている、とも言えるかもしれない。
それは彼女達が私達を突き放さないことで、メタ的とは何なのか?ということを、真に考えさせてくれることに他ならない。
でもこうやって、彼女をわかった気になっていることもまた、不誠実な態度なんじゃないかなと思う自分がいる。
こうした語りすら、彼女への意味付けであるような気がしてしまう。
言うこと”自体”は自由だが、言ってしまうことは不自由、ということだ。
だとしても、彼女との関係性を、何度も何度も紡ぎ続けることに、何か意味があったと、私は思いたいのだ。
まとめ
本当に長くなった。
つまるところ、要点は以下のようである。
- メタフィクション的なゲームを、自己言及を伴うものだとするならば
- それは虚構と現実の区別を自明とした言明であり
- ゲームという表現方法を鑑みた時に、完全な区別は不可能であるから
- むしろ創作物という全般においても、虚構-現実という対立においてでなく、私と創作物の関係性において語られるべきである
ということだ。
もっと自由な感想、本当の雑記、考察等
あーーーーあ本当に長かった。
完走してから随分時間が経って、ようやく着手出来た。
というのも、どうしてもラトゥールが気になったので、概説書を手にしていた。
で、読んでいたらあまりにもホタテの採苗器の例が的確すぎたものだから、感銘を受けて何度も何度も反芻していたらドツボにハマった。
特に「Rusty Caramel Cage」。
あとバッドエンドだけど「NOISEREDUCTION」。
バッドエンドだけど、これを見るか見ないかで、このゲームの理解度は大きく変わってくると思う。
自分がどうやって輪郭を与えるか。それが重要なんだから。
推理パートに入る時、糸が切れたかのようにって表現されるのは、真エンドの「天使は地面にいる」ことと呼応してるのかな、っていう気がした。
宙につられて、天使になりたかったのに、器に色が満たされて、因果律が確定してしまったことの隠喩。
これ以外にも結構こういうのは色々あった気がする。
ぶっちゃけ地雷系ってめちゃくちゃ好きかって言われると、そうでもない。
だからゆめかわ系?な彼女のビジュアルも別にそこまで刺さっていたわけではない。
だがもう、今は愛おしくて仕方がない。それはなんというか、恋とか好きとかそういう言葉でもなく、なんて言えばいいんだろうか。
やっぱり、言葉にできることはほんのひとかけらなのだろうか。
最後の最後に主題歌が流れた時はもうなんというかすごいゲーム体験で放心状態だった。
まだまだ自分が経験していないゲーム体験は山程あって、これからも増えていくんだろうなと思うと、楽しみでしょうがない。
でも、『Inverted Angel』は、私がインディーを遊ぶきっかけになった『Undertale』以上に思想に影響を与えたし、きっと生涯を通じて感銘を受けた作品の一つとして数えることになると思う。
それはなんというか、やっぱりゲームの作りに誠実さを感じるからなんだと思う。
これは絶対に何かを咎めたいというわけではないから、そのつもりで読んでほしいんだけれども、いわゆるメタフィクションなゲームって、結論が露悪的っぽくないか?って思う。
大体の場合、こちらに虚構と現実を意識させて効果があるのって、私達に負い目がある時で、お前たちのせいだ!と糾弾されて度肝を抜かれる、みたいな。
でもよく考えたらその展開用意したの制作者であって俺達じゃないじゃん。ってならない?もちろん引き金を引いたのは自分かもしれないけども。
しかもそうやって突き放してくるのがメタフィクションなのだとしたらもうただの露悪作品群になっちゃうじゃん。そうじゃないでしょ。って思うんだけど。
露悪も好きなんだけどさ。
自分もそういう作品をそういう作品だと思わないで触れた時は面白い!ってなるんだけど、二回目以降は触ろうと思えないんだよね。
『Inscryption』とか顕著で、ローグライクだと思って鯖内で配信しながら遊んでたから大ネタバレ自爆テロになってしまった。二回目はない。
あれは本当に面白いゲームで、ゲーム総体の評価として見て10点中10点なんだけど、ローグライクとしてみると10点中8点みたいな評価。ケイシーズmodまでやるならまたちょっと別なんだろうけど。
で、ゲームの作りの誠実さって何かっていうと、コンセプトの一貫性。
ふわっとした会話を通して、彼女とおしゃべりして。
でも疑問に輪郭を与えるのは自分自身で、その輪郭は住人にも、彼女にも影響を与える。
結果として住民は思いもよらない人になってしまったり、自分の疑問にも影響が与えられたり。
この言葉を使わないで文章を書こう、と思っていたけど、言ってしまえば徹頭徹尾「アクターネットワーク」を主軸にしているんだと思う。
彼女の在り方も、住民の在り方も、この私の輪郭の与え方によって、つまり私を媒介にすることで、如何様にも変化する。
しかしそれはメタ的に断定するというやり方ではなく、私もまた彼らに影響され、相互に繋がり合う。
思想に筋が通っている作品は本当に大好きなんだ。
その誠実さに私は応えたくなった。
トロコンしたゲーム、直前に遊んでた『ENDER LILIES』ですらべた褒めで久々だったのにこんな連続してトロコンしたゲームが出てくるなんて初めてだよ。
メタフィクションだと言わないほうがいいなんて言ったけど、まぁ世間的な目で見たらやっぱりメタフィクションだと言われるんだと思う。
ぶっちゃけREJECTの表示とか選択肢が強制されたりとか、あれってメタフィクションにはありがちだよね。
でもゲームに一貫したコンセプトのことを考えると、あれはいわゆるノベルゲーにおける”選択肢”の概念とか、現実に干渉する演出というよりも、人生一般に与えられた、取りうる選択肢…という解釈の方がきれいなように思える。
例えば、自分の人生じゃまずありえないんだけど、彼女をうっかりゴムなしだか漏れただかで孕ませてしまったとする。
でも人道的に堕ろすわけにも行かない。だからデキ婚するしかないなった。
ってなったら、実質的な選択肢ってないわけじゃん。作中の言葉を借りるなら転がっていってしまうとかそんな感じ。
それって誰かの意志でも願望でもないしね。
この場合選択肢って事実上結婚しかなくて、だからデキ婚っていうことになるんだけど、よく考えたら別に堕ろしちゃいけないなんてことは別にないよね。
いやこの言い方はまずい。堕ろすという選択肢を取り得ないということはないよねってこと。
けど無意識下にしても省察の末の判断にしても、その可能性を封殺していたら出てこない選択肢だし、無いのと同じこと。
それをゲームの演出として見せただけで、別にメタ的な演出とも言えないような気がする。
このゲームは、なんだか自分を包みこんでくれるみたいで、突き放された気分にはならないんだ。
こんな気分は初めてだった。
確かにこれは創作物なのに、虚構と現実という感覚よりも、彼女たちとの交流を楽しんだという感覚の方が圧倒的に強かった。
その感覚が本当に大好きだった。
だからこそ、メタフィクションだなんて安易な言葉で片付けたくなかった。
自分と『Inverted Angel』との関係をそのようにしたくなかった、っていうのがこの文章を書くきっかけなのかもしれない。
これ以上長くなるともう自分でも何が言いたいのかわからなくなってしまう。
感想というか自分の論壇でオナニーしてるみたいになってしまうからやめやめ。というかもうなってる。
だから本当に最後に言いたいことを。
本当に、本当に良い体験でした。
彼女との対話を忘れることは生涯ないと思います。
それはゲームという垣根を超えた、対話の試みだったように感じます。
このゲームに携わった全ての人に、ただ感謝を。
素晴らしい体験をさせてくださり、本当にありがとうございました。