ド畜生黙示録

オタク的ないろんなこと

先日、といっても1ヶ月ほど前なのだが…に、ある禊を済ませた。


詳細についてはあまり触れられないのだが、私の個人的な未練に関するものである。
10年近く引きずった未練である。

あまりに簡単な、ほんの1秒ほどの、しかし決断までに膨大な時間を要するような、そんな禊であった。

それが済んだ瞬間、私の世界に再び色が戻った。
比喩などではなく、本当に、視界に色があることを久々に認知することができた、という感覚である。
空を見上げれば青いことがわかり、木を見つめれば緑であることを、知覚し直す猶予が与えられた、といったような。

晴れ晴れとした。その刹那、私の第二の人生が始まったかと錯覚するようなほど。

本当に不思議なことに、たったそれだけのことで、私のこれまでの抑うつ的な感情が全てなくなってしまったのではないか、とすら思った。


未練への決別というのは、ある種の諦めである。

諦めるということは簡単なようで、あながちに難しい。特に執心していることともなれば。

私は、結局人生というのは、執念と諦念のバランスなのだということを悟った。


私にできないことはどうやってもできないのである。
できることとできないことというのは、どうしても存在する。

世の中には努力でどうにかなることと、ならないことがある。

努力でどうにかなるのは、行動を起こすことまでである。
何かに執心し、それを求めるがゆえに、行動を起こすところまでは、努力で変えられる世界の範疇である。

しかし、行動を起こすその主体たる私自身、あるいは行動を起こした後の結果…は、私と関与しない、何らかの運命の悪戯とも呼べるものでしかない。

「この不完全な物語を、あんたの望む姿に変えなさい」

崩壊3rd メインストーリーチャプターⅨより

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「私たちの描くお話は、私たちが決めるんです!」

ブルーアーカイブ エデン条約編第3章 19話 私たちの物語 より

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自分の在り方を自分で決めるという筋書きは数多くある。

でも、悲しいことに人生は物語ではない。

きちんとした筋書きも設定もないし、道標も、伏線もない。
乱雑で、歪な点の集合体である。

2点あれば線を結ぶことは叶うだろうが、結局それらは整然とした形を持たない。何も形作らない。

それなのに、生まれた瞬間に、与えられる。

私が私であるということは、それ故に残酷なのである。
代替不可能性の象徴。

藻掻けど藻掻けど、私は私以外の何者でもないし、私が起こしたあらゆる作用の結果は、私以外の手に握られている。

世界とはそういう姿をしている。


私にはできないことが多くある。

長時間の集中、人と目を合わせる、初対面の人との円滑な会話・あるいはその参入、計画的な行動、ありとあらゆる自制。
これらはもはや、自分の力ではどうにもならないことである。

これを執筆している今も、キャスター付きの椅子で辺りを駆け巡りたいほどの衝動に駆られている。(しかもたまにそうしている)

これらが日常に著しい影響を及ぼすようになると、それは”障害”と呼ばれる。
障害という概念は、生まれつきのものでもあるし、そうでないとも言うことができる。

例えば、私たちの中にはメガネをかけたり、コンタクトをかけたりする人が多くいるが、それを視覚障害と呼ぶだろうか。
矯正視力という概念があり、日常に支障をきたさない程度の矯正で視力が得られる限り、それを一般に障害と呼ぶことはない。

障害は絶対的であり、相対的でもある。そんな概念である。


残念なことに、私はそうした特性で数えきれない失敗をしてきた。

どうにもならない私自身の手によって、失敗が重ねられるというこの感覚は、世界への自己効力感を著しく損なわせる。
自己効力感というのは、簡単に言えば、自分の手によって何かを為せる、という確固たる自信のようなものである。

世界の手綱は私の手にはないと、そう確信するのは、あまりにも容易であった。
私は無価値で無意味だと、そんな信念は自然と芽生える。


しかし、そもそも価値とはなんだろうか?
有価値であること自体に、価値はあるのか?

そんな疑問が次第に生まれる。

そして価値とは、一体”誰の”価値なのか?


人間は、気がつけば他人の価値で生きている。
というより、人間社会そのものが、そのように作られているのかもしれない。

福沢諭吉が書かれた紙切れ1枚自体には何の価値もないが、皆がそれに価値を見出しているがゆえに、それは貨幣として機能する。

価値というのは往々にして私から離れたところに存在するものなのかもしれない。
自分が何者であるかは、自分が何者であるか以上に、”自分が何者でないか”、”他人が何者であるか”によって意識されることのように。


私の無力感は結局のところ、世界への自己効力感の不足である。
私は何者でもなく、他人は何者かである、といったような言葉で表されるような。


私が悟ったところの、執念と諦念のバランスというのは、この価値を、自分の中に取り戻すということに他ならないのかもしれない。

私の価値は私が決めるという執心。
そして他人の価値は、どうにもならないと投げ捨てる諦念。

他人の価値で生きている限り、このどうにもならない私を無理やりにでも変質させるか、さもなくば他人の価値との不調和を起こすのみ。

であるならば、価値判断の基準を、自らに移すこと。
エゴイスティックに生きること。

それだけが、世界への自己効力感を芽生えさせる方法なのかもしれない。
あるいは、世界を作り変える、唯一の方法なのかもしれない。

「美しくなくて当たり前」
「私は彼女たちを、彼女たちが愛するすべてを愛してる」

崩壊3rd メインストーリーチャプターXXV より

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人間は無力で、自らを、他人を、世界を作り変えることは叶わない。
何もかもは望むようにならないし、どうにもならないことだらけである。

唯一変えられるのは、私がそれをどう判断するかということだけなのである。
乱雑な点と点を繋ぎ合わせて結んで、星座を描くことができるように。
見える星の位置は絶対的でも、星座は相対的なものだ。

私自身の価値で生きること。

これが不器用な人間に残された、最後の道なのかもしれない。