たった1ヶ月ほど文字を書かないだけで、文字の書き方を忘れてしまうらしい。
あるいは、その1ヶ月に多大な変化があったと言うべきか。
気は滅入りっぱなしだし、ない頭は思考を辞めている。
いよいよ終わりも近いのだろうか。
やりたいことだけをやりたいようにして、あとは詰んだときに終わり…などとやるとあと1ヶ月もすれば研究室配属である。短い命だ。
当たり前の事が当たり前に出来ない苦しみ。
初歩的な、本当に初歩的なことすら出来ない苦しみはどこにぶつければ良いのだろうか?
やらなければいけないことはやる、人と話す、きちんと眠る、ご飯は食べる…等。
大学に来て以来、こうした社会的な人間として当たり前に出来なければならないようなことが、全く出来ていないということを、延々と自覚しなければならなかった。
過ぎた幸せというのは身を滅ぼすのかもしれない。
私は地方を離れず、実家ぐらしでそこそこな収入で、2週間に1回くらい飲みに行くだけを楽しみにするような、そんな生活を望んでいたのだろうか。
そんな大掛かりな幸せを、私は望んでいなかった。
ただ平穏があればよかった。
その平穏すらも、私には掴めないのかもしれない。
昨今、某大物Youtuberが再び脚光を浴びている(野ざらしにされるとでも言ったほうが適切だろうか)が、あれはあんまり笑い事ではない。
この世に正しい形で生まれてくることができず、適切に学ぶことができず、自己顕示欲だけが肥大した末路があれである。
特筆しなければならないのは、誰でもああなる可能性があったということである。
皆、運良くこの世界に、正しく在れるということである。
もし出生の際に何らかの障害があったら?もし両親の仲が悪く、生育環境が悪かったら?もし義務教育過程で、致命的なトラウマを負っていたら?
様々な障壁を乗り越えて、皆生きている。
その障壁を、1つでも越えられなかった人は、きっと生涯苦しむのだろうなと思う。
そのことを、生んだ張本人が何も理解しないというのは何事なのだろうか?
私の苦しみが、皆一様に、同質に抱えているものだとでも?
苦しみは皆、歪で異質だ。
ある時は生まれて来たことが嬉しいなどと言いながら、またある時は自らの理想を私に幻視し、現実を直視しない。私の苦しみをまともに取り合わない。
そんな二枚舌はうんざりだ。
うっかり実家に帰ることになってしまったから良くない。
今両親に会ったら殴り飛ばしにかかってしまうかもしれない。
しかし私自身が何を望むのかも、それすらももはや曖昧である。
願わくば永遠に続く平穏を求めたいものだが、その度胸すら私にはない。
何かを書き留めようとしても、ただ悲しみだけが溢れて、思考が発散してしまう。
これ以上は何も紡げないようなので、ここまでにする。
こんなものを書くのに次がないことを祈る。