緒言
生得的とは残酷なことである。
レポートの残骸
私は理系の授業を取ることはできないので(能力的な問題で)、定期的に哲学系や倫理学系の授業を取っているのだが、比較的他の授業に比べればマシな評価で返ってくる。
このレポートは授業の内容を踏まえなければならないのでかなり無理くりではあるが、私の言いたいことをなんとか言語化できているように思える。
ちなみにこの授業は生きる意味(ないし反出生主義)について、日本思想から考えるといったものであった。
生得的とは
生得的とはつまり、生まれつきということである。
身体のことに限らない。あらゆることについてである。
脳の作りに始まり、両親、国家、所属、環境。
生まれた瞬間に決定してしまっている全てのこと。自らでは変えがたいこと。
そういったことである。
幸か不幸か
生得的なことは、天からの祝福であり、かつ呪いでもある。
五体満足な身体、思考するに十分な神経回路。
或いは歪な思考回路、恵まれない生まれ、土地。
必ずしも生得的なことはプラスに働く訳ではないし、マイナスに働くわけでもない。
だがそのいずれも、自らの力では変えがたいという点で共通する。
残酷さ
自らの力でどうにもならないということは、それが一見プラスに働くように見えても、残酷なことこの上ない。
もちろん、一般的に考えれば、健康な身体を持ち、”正常な”思考回路を持つに越したことはないが…それは同時に、そういった生き方以外を選び取ることができないということを意味する。
ゲームのキャラクリエイトではないのだから、今あるこの身体、この思考以外で私を生きることは不可能である。私を私以外で代替することは不可能である。これがどれだけ残酷なことか。
”アイデンティティの確立”なんて言葉がある。エリクソンのやつだ。
端的に言えば、”私らしさ”を見つけましょう…という文脈の。自我同一性とも呼ぶ。
私に言わせれば、私が私以外でないということほど残酷なことはない。当然私が私以外であっても困るのではあるが…
そもそもな話、”これが私だ”と断定すること自体危うい。
広義で言えば自分なんてものは千変万化するものである。成長しても、場面によっても、種々に変化するものなのだから画一的な自分意識を持っているということ自体に疑念がある。
更に言えば狭義でのアイデンティティを考えるなら、そんなに千変万化しても困るのである。逐一成長のたびに自分を再定義していたのではそれこそ”アイデンティティ・クライシス”だ。
こんなものが青年期の課題ですなどと宣って意味もなく若者を不安に陥れているのでは居た堪れない。
若干話が逸れたが、私が私以外でないという事実は残酷極まりない、覆しようのないことである。
生きる意味について
実存を問うにあたってぶち当たる壁である。私はなぜ生きるのか。人類はなぜ生きるのか。
長々と考えても無駄である。人類という存在そのものに生きる存在意義などない。森羅万象全てにおいても同じことである。
ただ殺生と生殖を繰り返し、糞尿を垂れ流すだけの生き物のどこに存在意義があろうか?あるわけがない。
だから与えられた”意味”を考えること自体が最初から頓挫する試みである。その過程は尊いものではあるが。
それどころか、そうした生得的な意味があるということは、それもまた残酷なことのである。
もし本当に生得的な意味があるのであれば、その召命観に駆られ、その生き方以外を許されない。
だから生きる意味なんてない方がいい。私はそう思う。
(もちろん、「人間は自由の刑に処せられている」とも言えるとは思うのだが…)
選択
唯一私達にできるのは選択することのみである。
何に価値があり、何をするのか?
それを自分自身で選び取る。
重要なのはそこに意味性が介在する余地はないということである。
意味ではない、紛れもない私自身が選択したというその事実こそが重要である。
不変である私が、可変的な何者かを、自らの意思で選び取るということ。
それこそが、唯一残された道である。