概要
『タコピーの原罪』の主題ないしテーマが虐待やいじめって本当?
↓
本当じゃないやんけ
経緯
私はいつも逆張りなので、TwitterのTLでいつも流れてくる『タコピーの原罪』をほとんど読まなかった。
逆張り以前の問題として、周囲の評判が「虐待やいじめの描写が細かい」というものだったので、特にそういった趣味はないし、多分読んでいて辛くなるので避けていた側面もあった。
先日完結したということで、感想がそれなりにTLに流れてくるようになったのだが、そのうちの一つに
「虐待やいじめを主題とした作品を”対話が大切”で締めるのは最悪」
結論
結論から言うと、少なくとも描かれている情報から読み取れる限りは、あの漫画の主題はいじめや虐待といったものではないように思われる。
いじめや虐待という描写はあくまで作品の舞台装置であり、そこから導かれる主題はまた別のところにあったという他にない。
そしてその主題は、”対話が大切”というもので間違いないであろう。
何故こんな解釈の違いが生まれたのか
作品の概要や詳しい内容については各自で読んで頂きたい。(逆張りじゃなきゃ読んでるだろうし)
主題を恣意的に決めるなと言っておきながら、主題を一つのもので間違いないと言うのもおかしな話なので一応根拠の説明だけしておくと、最終話のタコピー(の思念?)のセリフ、「おはなしがハッピーをうむんだっピ」「いちばん大切なこと ぼくが忘れてしまっていた いちばん大切なやくそく」というセリフである。
ここまで言って主題が”おはなし”じゃないと主張するのもどうなんだ…と私は思うけれど、決定的な要素はこれだ。
で、どうしてここまで解釈の違いが生まれてしまうのか、というところであるのだが。
リアルタイムで追ったか/そうでないかの違いは、如実に現れているかのように思う。
初めに書いた通り、この作品の評判はいじめ・虐待の描写が生々しいとかそういったもので、そこにフォーカスして作品を読み込んでいる人が大変に多かった。
それ故にソフトリョナが好きな人たちにに再三勧められながらそれを断るというのを毎話更新されるたびに繰り返していた。
転機と言えば、”信頼できない語り手”が現れた辺りである。
5話~11話付近、久世しずかが一貫した被害者ではなく、加害者の側面も持ち合わせていること、そして更に、タコピーは一度雲母坂まりなに会っており、久世しずかを殺そうとしていたということが明らかになったという展開を以て、考察界隈のボルテージは最高潮になったという風に記憶している。
もともと短期連載であることは明らかになっていたし、ここからどのように展開するんだ?という期待でTLは満ちていた。
最終話直前の15話、突如ハッピーカメラの隠された機能、あるいはハッピー力という存在が明らかになり、そのご都合主義にも見える展開に上がり続けたボルテージは下降を始め、その結末を見て失望するような人も見受けられた。
なぜ失望ないし、期待はずれという感想が出てしまうのか私にはわからなかったのだが、こう考えると納得がいく。
虐待・いじめといった単語に惹かれて読んだ人ほど結末に文句を言っているし、そのような色眼鏡をかけずに読んだ人はそうでもないのだろう、と。
そもそもの主題を履き違えていたのだ。
虐待・いじめの描写が細かいからといって、それが主題だとは限らないのである。
それを恣意的に「タコピーの原罪は虐待・いじめをモチーフにした漫画である」などと言って誤った主題を設定し、そうして誤った考察を行い、誤った結末を導いた始末が作品への批判である。
これを愚かと言わずしてなんと言おうか?
だからこそ、物語の主題は恣意的に決められるべきではない、のである。
それは自分が見たいものの投影でしかなく、実際に現れているものとは違う。
書いても、描いてもいないことからあらぬ方向へ結論を導き、挙げ句文句を言うのでは、紋切り型の一問一答を記述式問題で行う出来の悪い受験生が如く、である。
一方、私はある程度”おはなし”という単語を目に入れながら作品を読み進めたので、そちらの主題がより強く目に映っていた。
また、一気に読み進めたことで、TwitterのTLの、あの最新話が更新されるたびに起こる独特の空気感に影響されなかったのもあるだろう。
周囲の人の考察や感想に影響されて、自分の作品を見る態度も変化してしまうものである。
虐待・いじめというモチーフに疑いを持ちながら読んでいたのも一因であろう。
その意味で言えば、私の目に映っていたのも同じように、見たいものの投影だったのかもしれないし、ひょっとしたら同じ穴の狢なのかもしれない。
ただ、今回に限って言えば最後に与えられた主題が”おはなし”であった以上、虐待やいじめがテーマという設定に無理があるというのは妥当性を持つだろう。
”対話が大事”はくだらないのか
ここからはあまりタコピーそのものは関係のない話である。
こう言う人も現れるだろう。
仮に、主題が”おはなし”の重要性だったとして、そのテーマは散々使い古されたもので、くだらないものであると。
あるいは、虐待やいじめを舞台装置にしながら、その結論を”おはなし”で締めるのは非現実的/理想論的/くだらないものである、と。
私はそうは思わない。
正直な話、いじめに対する解決策に、”おはなし”を挙げられたら、私は反吐が出る。
私はかつてそれを拒否したし、気持ちが悪いと思ったし、それが解決になるなど微塵も思っていない。周りの頼れる大人も、それを拒んでもいい、とまで言った。
しかしそれはクソ喰らえな現実のお話。
何事にも、光を射す者は必要なのである。
現実は非情で、くそったれで、生きる価値があるなんて思ったこともない。
それでも生きなければいけない世の中で、それを一人残らず、皆が皆、まともに認めてしまったら、一体誰が光を射すのであろうか?
理想論を唱える人が、一人くらい必要なのだ。
その表現方法は何でもよくて、その一つが漫画だったというだけの話である。
それをくだらないと言うのであれば、あなたはどうやって生きているのであろう?
何らかの光明を目指して、誰しも生きているのではないのか?
あともう一つ言うならば、”おはなし”で解決できない問題に直面している人は相手にされていない。その人は別の解決策へ向かうしかない。
そういう解決策があるのに、それに手を出さない者、出せない者、知らない者に向けられているのだと考えれば、我々(?)外野が言うことは何もないのだ。
おわりに
だから、私はあの作品の主題が虐待・いじめだとは思わないし、そして主題が”おはなし”だったとして、それをくだらないとは全く思わない。
あの結末は、おそらく考えうる限りで最善の結末だった。
そこに至る過程を考えても、あの終わり方で何の異存もない。
良い作品だった。
もう少し踏み込んで”おはなし”を読む
ここから先は作品に踏み込んだ話である。
改めて読み込むと、”おはなし”という単語が至るところに頻出しており、やはり疑いなくこの作品のテーマが対話であるということを裏付けているように思われる。
例えば2話、まりなが自宅に帰った後の母親のセリフ、「ママのおはなし 聞いてくれるよね…?」や、3話、しずかとまりなが森へ入っていく直前、タコピーのセリフ、「まりなちゃんと”おはなし”」、7話、「しずかちゃんともう一度 おはなししなきゃ」等々。
わざわざ””で囲んであったりするのを考えればこれらは意図的なものだろう。しかし、おはなしという単語そのものに特殊な意味が込められているわけではない故に気にも留めることなく読み進めてしまうところまで、ひょっとしたら計算のうちなのかもしれない、とすら思う。
あるいは、”対話の不成立”をわざと強調しているようなシーンも多く見受けられる。
まりなの母親の言う”ママのおはなし”は一方的な語りかけで、対話ではない。
タコピーは、しずかに対して、まりながわざわざ犬に噛まれに来る理由を、最後まで聞かなかった。
しずかの母親は、”チャッピーがお父さんとこに行く”ことにして、真実を伝えなかった(故に東京まで行くという行動に出るはめになった)。
しずかは、東(直樹)に対して有無を言わさずに要求を飲ませた。
直樹は、兄の潤也の言うことを聞かずに、劣等感から言われることを先読みしていた。
ここまでで、10話まで程度の内容である。
こんなにもあからさまで、なお対話が主題でないというのは無理がある。
そして、対話の不成立から生まれた歪みは、タコピーの自己犠牲によって対話に結びつき、救いとは言えなくとも、彼ら、彼女らは一人ではなくなった。
しずかとまりなは気の知れる仲になり、直樹は兄と喧嘩する程度の仲になることが出来た。
もしご都合主義的な展開があるのだとすれば、タコピーが突然記憶を引き継いだループを可能にしてしまった点くらいであろうか。
まぁそれをご都合主義というのであれば、そもそもタコピーが故障前にカメラで何回もタイムリープを起こしていたのをご都合主義と言わずして何というのだろうか(そもそもハッピー道具の原理もクソもないので、ドラえもんのようなものだと思う他にはないだろう)。
それに、他の人から見えるタコピーの姿、ドクダミ。ドクダミの花言葉のうちの一つは自己犠牲。きっとこの程度の安易な考察から導かれる結末などある程度は予想がつくだろう。
考察とは本来この程度でいいのである。多分。
もっと”おはなし”にフォーカスするのであれば、タコピーの罪とは、”おはなし”をしなかったことである、とどこかで見た。Twitterで見たのだが、元ツイを辿ることが出来ない。不甲斐ない。
タコピーの記憶をリセットされたのは、当初タコピーが一人で星に帰ったからだとか色々言われていたのだが、冒頭でも書いたとおり、いちばん大切なやくそくは”おはなし”することだったのである。
タコピーが記憶を消される前、タコピーはまりなの話を聞かずに、しずかを殺そうと星に旅立ってしまった。それこそがタコピーの罪だった…という考察は、”おはなし”というテーマを踏まえれば納得のできるものである。
その他にも書きたいことはたくさんある。
よく見ると兄はただ心配しているだけなのに、そのセリフをわざと黒色で囲んで(不穏なことを言っているかのようにして)いることとか。
作中の誰一人、”東くん”を名前で呼ばなかったのに、ずっとそばにいた東潤也だけは、直樹と名前で呼んだこととかとか。
本当によく出来た漫画だと思う。
そうしたことは、もっと漫画に詳しい人がよく解説してくれているだろう。
これ以上は私が語ることはきっとないはずである。
百合エンドかどうかなんていうのはあまりにくだらなさすぎて議論の余地もないし。(私としては心底どうでもいいという心持ちである)
考察勢
ここからはもう本当本筋には関係ない話。
今でこそ、そこまで超大人気コンテンツ!というわけでもないが、かつてアイドルマスターシャイニーカラーズが、そのシナリオの出来の良さから話題になったとき、考察勢がウザったいとかよく言われていた。
当時はそれを、文章をよく読み込まない人々の僻みないし怠慢とまで思っていたけれど、今でならわかる。
彼らから見れば考察勢とはあの某Twitterインテリ気取りのように映っていたのだなぁという風に思うのである。
そもそもこの記事自体、その某ツイッタラーだかなんだかのトンチンカンな感想を目にしたからこそ書き始めたのだが、身の安全のために元ツイは伏せる。今見ても腹立たしいというか、幼稚で独りよがりで狂ったツイートだ。文字通りな。
考察はもちろん好きだ。
でも、考察とは表現されていることからその先の展開とか、背景とか、そういったものを考えていくものであって、自分の都合のいい主張を行うために帳尻を合わせることではないのだ。
どうも、考察勢というのはコンテンツを自分の主張を行うための都合のいい道具にでも使っているのではないか?と思うようになってしまった。悲しいことに。
別に私の言っていることが100%正しいとも思わない。
しかし、考察とは自省も含めながら、少なくとも”描かれていることから”行われるべきではないのであろうか。
その行為は、常に疑いを持ちながら進められなければならない。それを、結論から入って進めたのではもう、何も言えない。
追記:一番言いたかったこと
タイトルをこれにした理由を完璧に忘れていた。
その上一番言いたかったことも忘れていた。
ここまで言って、だからなんだって言う話。
つまり、作者を置き去りにして主題の設定とかをしてるんじゃないよってこと。
あんなにあからさまな主題を設定されているというのを置き去りにして、主題がこうなのにこの結末がおかしい!は傍から見たらおかしな人ですよ。本当に。
例えば他にもモチーフがあるんじゃないかとか、この描写は別のことを意味しているんじゃないか、みたいな話ならわかるけども。
それを飛び越えて批判とか冒涜にも見えるようなことを言っていたら、それはもう読解力がないか、省察する意欲がないかのどちらかとしか思えない。
以上。いろんな苦言も含めてしまったけれど、タコピーは良かった。これは間違いない。
コンテンツを腐らせるのは時に読み手なのだなと思う、いい経験でした。