ド畜生黙示録

オタク的ないろんなこと

望郷

およそ1年半ぶりに帰省したらしい。

シフトの穴埋め要因ということもあり、いつも繁忙期には帰ることができないままズルズルと来てしまったから、本当に久しぶりである。
おい、そういうとこやぞ株式会社G◯ND◯。コストカットすんなや。おい。聞いてんのか。

帰りたいから帰ったというよりかは、ほとんど義務感に駆られてである。
なんとなく、社会的な道理というか、道徳心というか、孝悌というか、なにかそういった焦燥感からである。

いい加減に帰らないと、という感覚。


正直荷が重かった。今の自分がまともに親と顔を合わせられる気がしなかった。

実家に帰らないことで、ある意味自分としての体裁を保っていたところがあるから。

親の存在を意識しないことで、過去の自分という幻影に囚われずに済むと思った。
何をどうやっても、自分の存在と両親の存在を切り離すことはできないから。
そして、自分の存在がどうしても庇護の下で規定されると考えられずにはいられなかったから。

そうしたものに縛られることがとても窮屈だと感じた。

過去の自分と決別したかった。別の人間でありたいとすら思った。

だからこそ、故郷はとても遠く感じられた。
それはもはやこの世のどこにもないとすら思えるかつての居所で、もう二度と帰ることがないのではないかとさえ。

しかし一度足を踏み出すと、たどり着くのは一瞬で、もはや今の世の中で、時間的な距離というのは何においても意味を為さないということを感じさせられる。
物理的な距離がいくら離れていたとて、それは実際の距離感とは程遠い。
もっと重要なのは、心的な距離感であって、それは決して時間や旅費や直線距離では測ることのできないものであった。

不思議なことに、いざ着いてみると、そこはまるで昨日足を踏み入れたかのように馴染みのある場所であった。
家に向かう足取りも、何もかもが、ずっとそうして生活していたかのような。

当たり前である。産み落とされてから18年過ごした場所なのだから。

そうして気がついた。やっと、両親との距離感を見定めることができたのであろうと。

断絶するでもなく、依存するでもなく、他人と他人との関係という至極当たり前の距離感を、ようやく構築できたのだと思った。

そうして感じられる実家は、たしかに私の帰る場所で、たしかに故郷であった。