かねてより私はVアンチと言われ、そして自称してきたが、もういい加減その表現をしていると完全に誤解を生むということを理解したので、私が最初から貫いている指針について触れたいと思う。
経緯
ゾ○ドが某女狐とコラボするという話を聞いたので、向こうの界隈も大変だなぁ、と思っていたが、明日は我が身であると思い、ファンネルでも飛ばすかなどと冗談を言っていたら真に受けた信者に凸された
以上が会話の履歴であるが、凸ってきた当人が悪印象を残したくないのか返信するや否やすぐにツイートを消していたので流れを掴みづらいが、おおよそこんな感じである。
ファンネルするか~
↓
お前病気だよ
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実体のないヘイトを貯めてるのは何?
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実体のないっていうのが完全に嘘なんですが…
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別にみんなそう言ってるとか聞いてないからw
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オタクのコミュニティに忌避されてることが一番重要なのでそこが肝心なんですが…
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例のレビュー(過去に書いた記事を参照)を引き合いに出してくる
↓
お前あれ読んだんか?アンチしてんのはゲーム会社やぞアホか
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読んでるわけ無いだろw(!?)
↓
じゃあ被害って何?
↓
お前らと関わること自体が害なんだよ
↓
GG
なんというかうんこの投げ合いである。議論というより”信仰”のぶつけ合いである。
前提
アンチも信者もカスである。
これは言わずがなである。
何かを好くのも嫌うのもほぼ論理に基づかない信念ないし信仰に基づくものであるので、論理的にそれを諭すということは無理というものである。
ただ、その信仰をある一定の論理体系としてまとめ上げることはできるだろうと信じているので、今一度、この信仰たる古典的オタクとしての態度をまとめるというものである。
オタク的信仰について
つまるところ、オタクとは何なのだろうか?というところである。
私からすれば、それは”ある一定の信念を持ってコンテンツを履修する異常者集団”である。
今でこそ、アニメや漫画はそれだけでは忌避されるものではなくなった。(未だ禍根はあるが)
かつてはある特定ジャンルのアニメ、漫画を見ているというだけで強い迫害を受けるという時代だったし、そうした期間は本当に長かったわけだが、今はもはやそうではない。
いわゆるオタク差別は、大分軽減された時代にようやく突入したわけである。
もはやオタクとは極少ない特定人種のことではなく、アニメ・漫画などを好む人一般を指す言葉へと変遷しつつある。
しかし、よく考えれば、そんな時代であるからこそ、ただアニメ・漫画を見ている人を、ほとんど差別用語であるようなオタクと呼ぶ必要はもうないのである。
それは彼等がオタクではない、ということを意味するのではなく、オタクという語は侮蔑を意味するということが念頭にあるし、更に言えばこの過渡期には自嘲的にこの語が使われていたということもある。(この用法は今や”チー牛”に取って代わられたか)
であるならば、彼等一般のコンテンツ履修者と、我々オタクとの違いは一体何なのであろうか?
それは信念の有無である。
どのようなものであれ、一定の価値判断の形態、それを持ちながらコンテンツに臨むことである。あるいは、それを持っている、とモニタリングができていることである。
これは好みの問題、という話ではない。
信念であるからには、それに反するものは糾弾も辞さない。少なくとも無関心なぞあり得ないのである。何らかの批評を伴ってコンテンツを捉える。
”老害オタク”とか”厄介オタク”と呼ばれる者がいる所以はそこにあるだろう。
彼らにとってそれは、ただコンテンツ、架空のお話ではなく、自分の世界を構築する信念である。世界についての重大な問題なのである。
そうしたコンテンツに対する態度が、オタクをオタクたらしめると私は考えている。
さて、そうしたオタク的信念と、VTuberというのは非常に相性が悪い。
先述の信念というのは、それが架空のものであるという前提に基づかなければならない。
なぜなら、その信念は人格を毀損する可能性があるからである。
あれ?”架空のお話ではない”のではないの?と思うかもしれないが、それはあくまで臨み方の態度としての問題である。
つまり、現実に関わるものではないが、現実に関わるものであるかのように、クリティカルな問題として扱うという話である。
(何を現実とするか、何を認識できるのかといった存在論や認識論の話はとりあえず隅に置いておいて欲しい。ここで言う現実とは一般的な語としての共通理解における現実である)
例えば、解釈違いという言葉がある。
自らの解釈におけるキャラ像と、提示されたキャラ像に差異がある時に起こる現象である。
これには、前提として”キャラ像”ないし、”設定”が必要である。
なぜなら、一般に人間というのは可変的、可塑的であり、固定された人格など存在しない。
故に、固定された人物像というのがなければ、本来は”解釈”に”違い”が起きることなどありえないのである。
言うならば、VTuberというのはいわゆるアイドルの本人そのものであるし、あるいはキャラクターに声を充てる声優の本人そのものである。
彼ら、彼女らはある意味でキャラクターではない。
そこには紛れもなく、彼/彼女の人格があるからである。
つまり、彼/彼女らに解釈を加えるというのは、人格の毀損を伴う可能性がある、ということなのである。
どういうことか。
可塑的であるはずの人格に対して、何か固定的なものを見出し、”勝手に解釈を加え”、”解釈違い”だなどとほざく、というこれは、彼/彼女が所有する人格を無断で所有し、改変するという作業にほかならない。これを人格の毀損と言わずしてなんと言おうか。
だが、オタクの活動は解釈を避けて通ることなど出来ないはずである。
だから、本来オタクとVTuberは相性が悪い、と考えられるのだ。
同様に、アニメのキャラクターに解釈を加えることは可能だが、そこに声を充てる声優自身に解釈を加えることはモラルに反する、といったようなことも言えるであろう。
(だからお前ら”ド畜生の解釈違い”なんていうのは失礼極まりないのである。俺だから許されてるけど絶対他の人にするなよ 単純にただただ失礼)
※余談ではあるが、設定を用いてキャラクター的に振る舞おうとしたVTuberもいるにはいるが、結局企業との折り合いがつかず引退という者も少なくはなく、プロではない者に対して何者かを振る舞え、というのは強引かつ無謀であるのかもしれない
クリエイターへのリスペクト:配信者はフリーライダーか
以上は、私がVに対して消極的であった理由である。
オタクである以上、解釈を避けて通ることは出来ないにも関わらず、それはモラルに反する可能性がある。
だから安易に関わりづらいということだ。
以下で述べるのは、積極的にアンチをしていた理由である。
そもそもな話、私は配信者というものが基本的に好きではなかった。むしろ嫌いだった。
なぜなら、配信者というのは、人様のコンテンツにタダ乗りする、フリーライダーに見えるからである。
あなたは何も生み出していないのに、ただ人のコンテンツを用いて人気を博し、収益を得ようとするのか?という疑問がついて回るのである。
決定的にVと袂を分かつきっかけになったのは、某社ライバーのラスボス配信・三点方式スパチャである。それ以前からそんなに好きじゃなかったけど。(それが冒頭のゾ○ドコラボの奴に該当するので守銭奴と表現したのである)
詳しくは調べてほしいのだが、あまりにもモラルを欠く行動であった上に、私の悪い配信者のイメージそのものであったから憤慨した。
ゲーム配信というのは、本来であればそれを”使わせてもらっている”立場である。
にも関わらず、何のリスペクトもなく、ただ自らの収益のためだけに無断で利用するのは言語道断である。
そして、そうした行動はゲーム業界の萎縮にも当然繋がる。本来開発者に流れるはずの利益が、別のところへ流れてしまうのである。
ゲーマーとしては許せない事件であった。
冒頭に記述した凸してきた信者は、この時に別に自分に関係ないからどうでも良くね?などとほざいていたのを覚えている。
そんなわけはないのである。
インディーズゲー業界というのは、ゲーマーと開発者というかなり狭いコミュニティの間で収益のやり取りが行われる。
いまでこそコンシューマーの媒体でもそうしたゲームが売られるようになったが、それでも一般の企業が販売するゲームに比べれば、購買層は異なる。
そんな業界に巨大な第三者が、タダ乗りする形で介入されれば影響は甚大だ。
ここまでの大事を自分と無関係などとほざくのは無関心にも程がある。
ただ、人様のコンテンツを用いるという形態は別に非難されるものばかりではない。
例えば有名楽曲のカバー、あるいは作品の引用、オマージュ、等々。
法に触れない限りは盛んに行われているものである。
であれば、ここには何の差があるのだろうか。
思うにそれはリスペクトである。
コンテンツへの愛である。
それは客観的に計れるものではなく、あくまで主観の集まりでしかない。
しかし、その主観の集まりの強度によって、許容されたり、許容されなかったりするのであろう。
つまり結局のところ、大衆が受け入れるか否か、というところに帰結してしまうのだが、そもそもな話そのコンテンツを享受するのは大衆なのだから、許容するのもしないのも大衆で問題がないのかもしれない。
普通の感性を以てすれば、前述の事件は受け入れがたいものであるはずだし、内部から非難が起こってもおかしくないはずである。(なんなら原作者が難色を示している)
だが、彼らフォロワーはどうやらそうではないらしいので、そんな界隈にいるわけはいかないと袂を分かって久しかったというわけである。
受容:出会い
以上のことを踏まえると、”解釈を加えられて”、”コンテンツへのリスペクトのある”VTuberなら私は別にアンチをする理由が一つもないのである。
このことはずっと言っていたにも関わらず、ただアンチという情報だけが流布されていたので遺憾である。
以前より赤月ゆにはいいぞということは申し上げている。
これは彼女がVTuberではないと自身で明言しているということもあるのだが、一番好印象なのは活動の基本形態が配信ではなく、動画であったことである。
配信であると基本的にトークや内容が即席なものになり、キャラクター性が薄れやすい。
彼女は設定に忠実なまま、動画投稿を行い、その内容も諸々にリスペクトを感じられるものばかりであったことから、彼女は本当に良い動画投稿者であると感じていた。
(実はVVVテューヌに「くさやはくさい」などと言ったことが好印象だったとは言えない)
さてそんなある日、私は名取さなというVTuberに出会う。
活動からそこそこ経つ個人V、名誉にじさんじである。
彼女の名前はブルーアーカイブを嗜むようになってから度々耳にしていた。
彼女は自分で配信を行う際、登場するキャラクターの簡易まとめを自らの絵で行うなど、TLによく現れていたのである。
何がきっかけかは忘れたのだが、彼女のブルアカ配信を見た。
そして衝撃を受けた。
”気持ちが悪い”。
これは特上の褒め言葉である。
彼女は、ただ一人のオタクとして、ブルーアーカイブを愛していたのである。
オタクが気持ち悪いというのはある意味、その原義からして当然であるし、それを肯定的に捉えて良いかどうかは微妙なところである。
しかしその当然が満たされているオタクが、いまどれだけいるだろうか?
その配信はリスペクトに溢れていた。
ずっと名前だけは知っていたVTuberが、まさかこんな人だとは思わなかったのである。なんならにじさんじだと思ってた。(委員長とかと絡みが多かったし…)
そして私はその受容を決めた。
敵対は意味をなさないと悟ったのである。
それから、ブルーアーカイブ絡みで何人かの配信を見るようになった。卯月コウや魔王まぐろななど。
私の預かり知らぬところで、リスペクトを持った新しい配信の形がそこには現れていたのである。
これはリスペクトの話だ。
では、”解釈”については?
名取さなは、その条件すら、一定程度クリアしていた。
彼女は"バーチャルサナトリウム"から配信を行う元気の良いナースである。
しかし、ナースであるのに外へ出るのは外出許可が必要で、更には普段配信を行う衣装ではなく、患者服のようなものを来た名取も楽曲のMVで映る。
厳しすぎない設定の縛りをつけつつ、彼女を取り巻く状況が不穏を伴いながら、度々明らかになる。
残念ながら(?)、これはオタクが大好きなものである。
以下を参照されたい。
www.youtube.com
www.youtube.com
この空気感である。
もう何も言うまい。
私は名取の配信を度々見るようになってしまった。もうおしまいである。
www.youtube.com
この配信の1:00:00~頃が最近のツボ。「原則として嬉しいお知らせ」のくだりである。
もうファンでいいよ…
更に言えば、彼女は”オタクの好きなインターネット”の文脈上にいる。
www.youtube.com
「アマカミサマ」はその最たるものであると思っている。
インターネットオタク同士の殴り合いの懐古、哀愁、そうしたものを爽やかに歌い上げている。
その他の楽曲もそういう雰囲気である。
そして彼女のトークもまた、私たちの好きなインターネットの文脈上にあるのである。
まとめ
結局のところ、私はただ”解釈の余地があり”、”リスペクトのある”VTuberを探していただけに過ぎない。
それをわかりやすいように簡便に”アンチ”と表現していたのが良くなかったのである。
そしてそれを満たすVTuberを見つけた以上、私はもはやアンチを名乗る必要がない。敵対する必要もない。
強いて言えば敵対するならば某ライブのみである。この守銭奴共が
以上。
にじさんじは比較的クリエイター寄りの企画も多いからいいよね。
社築は実は前から見てたし、マスターデュエルの配信とかも実は度々見てはいた。
この前皇女の配信に上田麗奈が出ててめちゃくちゃビックリしたりもした。
正直、名取はだいぶクリエイター気質を感じるのでうっかりスパチャしそうで本当に怖い。
クリエイターへの還元は惜しまない質なのである。ゲームはSteamでありったけ買っていたし、漫画は基本本屋で買いたいと思う人なので。
VTuberに対してクリエイターの性質を見出した瞬間、その還元を正当化しそうなので誰か止めてくれ
なお赤月ゆにのボイスは購入済みな模様
終わりだよ