ド畜生黙示録

オタク的ないろんなこと

おしゃぶり昆布

私は海藻類が嫌いである。

昔は好きだったような気もするのだが、ある時を境に嫌いになってしまって、今では唯一嫌いな食べ物である。
あおさは大丈夫でわかめはダメとか、出汁はいいけど生はダメ、みたいな偏りもあるのだが。

中でも昆布はダメなものの象徴だ。
給食のメニュー表が月末に配られるたびに昆布という文字が現れる回数を数え、一喜一憂し、友人にからかわれる日々を送っていた。

母はコンビニでよく売っているおしゃぶり昆布をよく食べていた。
車での外出の前に買って、車中で食べることは稀ではなかった。
小さい頃はそれをもらって美味しい美味しいと食べたりもしていたのだが、やはりいつからか食べなくなった。

あれからそこそこ長い月日が経った。

住む場所を移した今でも海藻はダメで、人間そうそう変わるものではないな、と思う。

行動に移すよりも鬱屈して考える時間ばかりが増えて、やがて考える時間すらなくなった。
思考も現状も、停滞するばかりだ。
そういう時、どうしようもないことを考えるより、遠くへ行くのは唯一の得策だ。

田舎に住む人にとって、電車での外出というのはそこそこな長旅を意味する。
1時間に1本しか来ないような3両編成の電車に、片道1時間とか2時間も揺られる生活を都会の人は知らない。
まだ地元は恵まれた方で、終電が19時とか、そういう地域だってある。

住む場所を移してそこそこな都市に来たつもりだったのだが、外出すると車窓に映るのはビル群ばかりではなく、時折寂れた商店街や、鬱蒼とした草木が映るのはやはり田舎に生まれた者の宿命なのか、と笑ってしまう。
地元に比べればマシだが…都市圏に出るのに1時間とか、1時間半もかかるのはやはりなんとなく地元からの外出を彷彿とさせる。
幸いにも今日は晴天で、9月も終わりを迎えようとしているというのに、鬱陶しいくらいに太陽が照りつけている。お節介な祝福である。

こうやって偶の外出に赴く時、私は時々おしゃぶり昆布を買う。
どうせろくに食べられもしないのに、である。
なぜだろう。

昆布は私の嫌悪の対象でもあり…郷愁である。あるいは母の姿か。

遠くに身を置きたくなる時、欲しているのは背伸びだ。
すなわち、「"ここ"にいるのは私ではない…遠くに行けば、私になれる」と、そう思いたいのである。
だから、友人に会いに行くだけだというのに、やたらめったら準備をしたりする。
朝からシャワーを浴び、手足の爪を整え、髪の毛も整え、フロスと歯磨きをし、車内で読む本もこさえて、万全の気持ちで玄関を後にする。(これを人に会う時の当たり前の行為だとか言うんじゃあない、私は一端のオタクだ)
朝から喫茶店に入ったりもする。元から好きなことではあるのだが、結局いつもは気後れして躊躇う。
一連の行為は、私は私でないぞ…ということの宣言のようなものだ。今の自分はいつもの自分ではないぞ、という。
それは停滞した日常からの逃避である。
自己嫌悪と卑下の行き着く先である。

当たり前だが、そんなものは思い込みに過ぎない。
そんなことをしても私は私で、停滞を打ち砕く兆しがあるわけではない。(なんならうっかり着てきたのは音ゲーのTシャツだ)

だが、こうして絶妙にボロい車内で、どことなくノスタルジーを喚起する車窓を眺めている片手に、おしゃぶり昆布があると、懐かしみとともに背伸びしたような気分になれるのである。
…一欠片口に加えて、少し顔をしかめてからお茶で流し込んでいるけれど。

嫌悪の象徴であるとともに、乗り越えるべきものの象徴でもあるのだ。
いつの日か母と別れを告げるその日も、ひょっとしたらおしゃぶり昆布を片手に握っているのかもしれない。

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…コラボカフェスイパラに行くための、東武アーバンパークラインでの回想であった。