ド畜生黙示録

オタク的ないろんなこと

責任

産み落とされたら、責任が伴う。
近頃そう思わずにはいられないのである。

こういうことを言うと大概考えすぎと言われるのが関の山で、取り合ってもらえないのだが、そういう人間は無意識のうちに生の責任を引き受けているのであると思うようになった。

責任と言っても納税の義務とか勤労の義務とかそういうことではなくて(もちろんそれもあるのだけど)、産まれたら、生きなければならないという単純なこと。

普通、人間はどう生きるか?という思考に向かうらしいが、人生限界まで煮詰まって後がないような人間は、何をしてから死ぬか?くらいの思考しかない。
なんなら今すぐに死んでも後悔の無いような人間の話である。

そういう人間は生きることを放棄しているのだと思う。"善く生きる"方法の模索を断念し、日々を浪費し、意味もなく死に向かってトボトボと歩くような人生を送っている。

もとより、80年もすれば死んでしまう人間が生きる意味なんてものは、本質的には何もないのだと思う。
でもだからこそ、かつて生きた人間達は善く生きる方法を必死で探して生をまっとうしたのだろう。

私はそれを、産まれたことに伴う責任を、善く生きることを放棄している。
そのことがとても辛い。

産まれたからには学び、働き、誰かを養い、そうやって何らかの生きていく形を作らなければならないのだろう。きっと人の世とはそういう風にできているのだろう。

でも私はそんなものを何一つ考えたくなかった。何も学びたくない、何もしたくない、ただ一人でいたいとそんな我儘を貫き通そうとしているのである。

やはりこれはどうやっても無責任だと言わざるを得ないことで、考え過ぎと言う方がおかしな話だと思う。 

どうしてこうなってしまったのかはもう自分でもわからない。

けど、この人生ではもう何をどうやってもダメだという確かな無力感だけがここにある。
全ての責任を放棄して、死に向かいたいと思わない時間の方が少ない。

何度でも言うが、これを考えすぎと言うような人間はやはり何らかの形で責任を引き受けているのである。
無意識的に善く生きる形を見つけて、責任を引き受けたからこそ悩む人が愚かに見えるだけなのである。

私はもう本当に、ただただもう何もしたくないという意思だけがあって、それ以外に何もない空虚な人間になってしまった。

産まれたことの責任を考えれば考えるほど、それを放棄したくなるし、産み落とされたことへの憎悪がふつふつと湧き上がる。そんな憎悪を生む自分もまた憎む。

当たり前のことが当たり前にできないような人間はこんなことしか考えられないのである。

生の責任を無意識に引き入れることができる人間は強い。

私はそれだけの強さがなかった。
ただただ弱い人間なのである。
そんな人間はもはや生きる資格すらないのだろうなと思う日々だ。

もっと普通に生きたかったと、切に思う。

あたり一面に憎悪を振り撒くような化け物に成り果てたのはもはや人間でも何でもない。

だから早く命を絶たねば、と義務感に駆られるのである。

無責任でもなんでもいいから、早く終わらせてくれ、と願うばかりで、結局は虚無が目の前に広がっていて始まりも終わりも見えない。

本当に、産まれたことが忌々しい。

責任を引き受けられる人間になりたかった、と切に思う。