ド畜生黙示録

オタク的ないろんなこと

妄執

ここ最近はメンタルが比較的安定している。

それもそのはずで、休学にかまけて将来のことを何一つ思案していないからである。

でも思案したところで、生きるか死ぬかの二択を自らに課し続けているだけで何一つ行動に移らないので思案するだけ無駄というのが常なのだが。


世の中の人は多分、考えても意味のないことはあまり考えていない。

考えなしに動いているとかそういうことではなく、考えるべきことと考えなくてもいいことをよく理解している。

つまり、生きるか死ぬかとか、なぜ生きるのかとかではなく、”どう”生きるのかを考えている。

結局のところ、生きる以外に選択肢など最初からないのである。
だから死を思案することなぞ時間の無駄だ。

自死は最後に残された人間の自由意志だとずっと思っていた。

冷静に考えてみれば、それを行動に移すほどの忍耐も度胸も兼ね備えていなければ、権利は持ち合わせども、自由意志を持ち合わせているなど思い上がりもいいところである。

生存本能に従うほか、人間には道は残されていないのだと、今更気がついた。遅すぎる。

だから、生きねばならない、と思った。


長いこと死なねばならない、という妄執に駆られていた。

何も出来ない、何もしない、そんな自分に生きる意味を認められず、ただただ無力感に苛まれ、早くここからいなくなれと、毎夜毎夜祈り続けた。

申し訳なさもあった。今この同じ時を共にする人に、生きていて申し訳ない、と本気で思っていた。

馬鹿げた話である。

それは、”自分はなにかができるはずだ”という思い上がりの果て。

世の中の大体の人は、何も成さずに死んでいく。それでも後悔などあるわけがない。

それでいいのである。いずれ歴史に埋もれて、誰も彼もわからなくなるのが常だ。

だから、夢も希望も、プライドも何もかも捨てて、自らの生きろという要請に従うしかないのである。

そうするしかないのだ。何も考えず、無思考に、どんな汚い手を使おうと、辛酸を舐めようと、それでも生きるしかないのであると、そう思った。


そこまで考えて、”死なねばならない”という妄執と、”生きねばならない”という妄執と、大して変わらないのではないだろうかと。

どこまで不器用なのだろうか。

両極端なのだ。思考が。

その不器用さこそが生きづらさのもとで。

生きるなら何かをしなければならないという執念、生きるなら何かを放棄しなければならないという執念。

世の中そんなに極端ではない。うまく調整しながら生きていくものである。

でも、0か1かで考えてしまうからこそ苦しむのであって。

こういうのを”認知の歪み”と呼ぶのだろう。

たしかに望ましくはないだろうなぁ、と思う。少なくとも生きる上では。

でも、歪んでいるのだとすれば、一体何から歪んでいるのだろう?

どうせ誰しも、何かを失って、すり減って、摩耗して、そうやって生きて、ちょっとずつ歪んでいくのだ。

その中の特定の執念だけが、歪んでいると言われても納得し難い気もする。

こういうことを考え始めるその思考こそが”認知の歪み”だとでも言われればそれまでだが。

からしてみれば、生きることを前提に全てが進む、生への執念も十分歪んでいると思ってしまうのだけれども。

先にも言ったがやはり生きる以外に道はないのだから、それが正しい道だというのもわかるが。


こうやってすり減って、傷ついて、それでも生きるのだとすれば、それはなぜなのだろう。

何もできない私が、それでも生きるのは、どうやってなのか、どうしてなのか。


アイデンティティという言葉が広く使われるようになってどれくらいなのだろうか。

自己同一性とか、自我同一性とか。

多分、この言葉は自己実現などと絡められて、発達とか、青年期とか、実存とか、そういった色々な場面で語られる。

これが確立されていないと、アイデンティティ拡散などと言って、危機に陥るのだと言われている。

自らを自らたらしめる要素を探さんと、必死になって皆もがく。

無駄に発達の知識なんかあると余計に。


”人間、皆誰かの下位互換”なんて、よくオタクの界隈では言われる。

アイデンティティなんてものを探そうとすれば、そうなるのは自然なことだ。

自分にしかできないこと・自分にしか成し得ないことなんてのは、ほとんどない。

普通に生きてたら、そんなものは有り得ない。

だからアイデンティティなんてものは最初から見つかるわけがなくて、拡散とかいう危機に陥るのは至極当然。

それでもその普通を脱そうとして、思案し、苦しむ。

本当に罪だと思う、アイデンティティという言葉は。

自己実現”?”自己実現欲求”だって?

そんなことにアイデンティティを求め始めたら、大抵の人間は破滅してしまう。

要素とか、出来事とか、そんなことに自我の同一性なんか担保できるわけがない。

もしできているのだとすれば、それは盲目なだけだ。

魔法が解けたら、バラバラに解け去ってしまう。

だって、自分にしか出来ないことなんか、ほとんどないんだから。
(偶然にもそうしたことを成し遂げられた人はよほど運がいい)

だからこう思う、自己実現アイデンティティを併せて語るべきではない、と。

何かを成し遂げようとする妄執にアイデンティティを委ねたら、きっとそこから一生離れられなくなる。

自分はできる、何かができる、何かをするんだ、何かをしなければ。

そうやって摩耗し続けて、その先には何もない。

そんなことにアイデンティティもクソもあるか。


簡単なことなのだ。

”私が今この時代に生きている”というそれ自体が、アイデンティティを唯一担保しているのだと、私は思う。

現に私は今大地を踏みしめ、この世に存在してしまっているのだ。

そのことを否定することも拒否することも叶わない。

たった一つ、その事実だけが、アイデンティティとなり得る。

私は私なのだ。唯一無二で、替えの効かない存在であると、宣言できるのだ。

自己実現…あるいは成就、達成、etc、そんなことにアイデンティティを委ねたら…替えなんかいくらでもいるのだ。自分より優秀な人間なんてごまんといる。

だから、私は私だ、と宣言する以外に、アイデンティティを確立する方法なんて無い。


それこそがやっと見つけた私の生きる方法であり、意味である。

生への妄執へ駆らせてくれる、唯一のやり方だ。


生まれてしまったことをいくら後悔しようとも、生への拒否権など持ち合わせていない。

同じ時代のピースの中の一部に組み込まれて、抜け出せないのならば。

私は唯一無二だと高らかに宣言して、その生を全うする以外に、道はない。


先週、クリスマスプレゼントとして、両親に軽いプレゼントを送った。紅茶とお茶請けのセットなどという安価なものだけど。

ちょうど昨日の19時頃に届いたようだ。

母親の反応しか見ていないけれど、いたく喜んでいた。


一昨日の深夜にバイト先の忘年会があった。

飲むのは好きだけど、付き合いで飲むのはどうなんだろうと思わないこともなかった。(奢りだったのでノリノリで行ったのは内緒)

けど、行ってみれば、心から楽しかった、と思えた。

従業員として以上に、一人の人間として扱われている気がするのは、悪い気持ちになるわけがない。

もちろん社交辞令も込みだというのは理解していても、である。

久しぶりに心から笑ったような気がした。


そうやって人と関わって、自分はもう既に、どうしようもなく世界のパーツの一つであると、自覚してしまったのである。

誰かが喜んで、悲しんで、怒って、相互に影響を及ぼし合うのは…もはや看過できない歯車の一つであって。

だから生きなければならない。

たとえ何も考えずとも、何も成し遂げられずとも、何をせずとも。

私は、私だ。